プロポーズは予約できない
「これ、今日中にお願いできますか?」
その日、事務所に現れたのは、涼しげなスーツを着た女性だった。手には一通の登記申請書と、妙に光る封筒を持っていた。封筒の中には婚約指輪の領収書らしき紙が入っていた。
彼女は、ある一棟のマンションの予約登記を依頼してきた。ただ、登記理由の欄に書かれた文言が妙だった。「将来のための愛の証明」と書かれていたのだ。いや、別にそんな理由で登記できるわけではない。
登記簿謄本と婚約指輪
「指輪の登記でもしたいのかね」と冗談を言ったつもりが、サトウさんの冷たい視線が背中に刺さる。
仕方なく謄本を取り寄せ、権利関係を調べる。すると直近で名義変更がされており、どうも売買契約が裏で動いていた形跡があった。
「登記の予約なんて聞こえはいいけど、本当にやりたいのは“先手”を打つことだな」と私は呟いた。愛の証明と言いながら、不動産を巡る争いの臭いがする。
彼女が残した申請書類
申請書には婚約者の名前も記されていた。だが、代理権の確認をしていくと、妙に曖昧な文言が目についた。委任状には“必要であれば”という不明確な表現がある。
それでも彼女は「急いでるんです」と言い残し、去っていった。あまりに性急すぎる。誰かに追われているようにも見えた。まるで、逃げる前に一手打っておく怪盗のようだった。
消えた婚約者
翌日、婚約者の名前で登記簿を引いてみた。だが、どの住所にも彼の名前は見当たらない。電話も繋がらず、SNSも音信不通。完全に雲隠れしている。
「このまま登記だけが走って、愛が置き去りになるなら、予約登記なんて悲しい制度だな」と自分でもよくわからないことを口走った。サトウさんが小さくため息をついた。
土曜の午後の急ぎ依頼
実はこの依頼、金曜日の夕方に持ち込まれ、土曜午前中に処理してくれと言われていた。司法書士を何だと思ってるんだ。
サザエさんだって日曜に働かないのに、こちらは土曜も気を抜けない。やれやれ、、、
だが、土曜の午後、彼女が再び現れた。「彼を見つけたんです。でも、もう遅いかもしれません」
二通の予約登記申請
彼女が差し出した新たな書類には、なんと前日と同じ物件に対して別の人物が予約登記を出していた記録が添えられていた。しかも、その申請はわずか一時間早かった。
「あの人、裏切ってたんです。婚約なんて全部嘘でした」と彼女は言った。仮登記に託した愛の形は、虚偽の約束にすぎなかった。
同じ物件に異なる依頼人
我々が確認した限り、前日に別の男性からも似たような登記依頼が他の司法書士に届いていた。奇妙な一致、あるいは計算された同時多発登記。恋愛ドラマではなく、登記ミステリーの様相だ。
「結婚詐欺って、もはや不動産詐欺と紙一重なんですね」とサトウさんが冷たく呟いた。妙に説得力がある。
不動産と愛の真偽
最終的に、二つの予約登記は内容証明や本人確認で優劣がつけられた。先に出された一通が通る見込みが高い。
だが、その裏には巧妙に仕組まれた財産目当ての策略が見え隠れしていた。
私は法の力で事実を整理するしかない。だが、心の領域は登記できない。永遠の愛を証明する書類など存在しないのだ。
結婚の約束は所有権か
彼女が言った。「私、指輪は諦めます。あの人の本性が見えたから」
でも、本当に欲しかったのは物件でも指輪でもなく、確かな気持ちだったのだろう。予約登記は取り下げられた。
代わりに彼女が私に向かってぽつりと言った。「先生、プロポーズって本当に予約できないんですね」
やれやれ、、、恋愛のほうが難しい
私は思わず笑ってしまった。「不動産より人間のほうが、登記簿に載せにくいからね」
あの彼女は少しだけ笑って、深く礼をして帰っていった。
「シンドウ先生、いつになったら誰かに登記されるんですか?」とサトウさん。冗談とはいえ、胸に刺さる。
司法書士の恋愛相談
書類を整理しながら、自分の未来のページには何も書かれていないことに気づく。そもそも、誰が予約してくれるというのか。独身司法書士に恋の登記は縁遠い。
「やれやれ、、、」再び漏れたその言葉が、今度は少し温かく響いた。
終わらない仮の関係
人の想いは仮登記のように、いつでも取消しが可能なのだろうか。いや、本当の愛は、本登記しなくても消えないのかもしれない。
夕暮れの事務所で、サトウさんが静かに珈琲を差し出してくれた。今日も事件は終わり、私はまた一つ老けた気がした。
プロポーズは真実の証明か
司法書士の仕事とは、真実を文書に残すこと。だが、人の気持ちは記録できない。
それでも、誰かのために証明し続けるしかない。それが、僕の仕事だ。
少しだけ目を閉じて、私は次の事件の足音を感じていた。