委任状と六つの印影

委任状と六つの印影

朝の来客と封筒の中身

朝の空気は、昨日の湿気を少しだけ残していた。事務所のドアが開いたのは、まだコーヒーに口もつけていない時間帯だった。入ってきたのは、年の頃なら五十代、ぼさぼさの髪に無精髭を生やした男だった。

「ここ……司法書士事務所、ですよね?」そう確認する声は、妙に頼りなかった。男は封筒を差し出すと、それ以上何も語らず椅子に腰を下ろした。中には、古びた委任状が一枚、丁寧に折られて入っていた。

依頼人は記憶を失った男

「何をお願いしたいんでしょうか?」と尋ねると、男は苦笑いを浮かべた。「……それが、自分でもよく覚えてなくてね。気がついたらポケットにこの封筒が入ってたんですよ」

記憶喪失を装うには、芝居がかっていない。だが、何かが妙だった。委任状は形式としては整っているが、書式が古い。なにより、代理人欄に書かれた名前が掠れていて読めなかった。

中に入っていた委任状の違和感

その委任状には印影が六つ押されていた。普通の登記手続きに、ここまでの印鑑が必要なことはない。登記権利者、義務者、それと代理人で三つあれば十分なはずだ。

しかも、そのうちの一つは印影が二重になっていた。まるで何かを隠すように重ねられている。「これは……なんだろうな」思わず漏れた声に、サトウさんがすっと顔を上げた。

サトウさんの沈黙

いつもは無駄口ひとつ叩かないサトウさんが、珍しく数秒黙っていた。「この書式、30年前のものでしょう。しかも、この印影……偽物ですね」

「まさか、偽造ですか?」と聞き返すと、彼女は頷いた。「それも一部だけ。でもそれが全体を壊してる」彼女の冷静な分析には、いつも舌を巻く。元野球部の直感では太刀打ちできない。

押印の癖に潜む矛盾

印影をスキャンして拡大してみると、ひとつだけ明らかに筆圧のかかり方が異なっていた。他の印は均一なのに、それだけ妙に濃い。「サザエさんで言うなら、波平さんがマスオさんのハンコを勝手に押した、そんな感じです」とサトウさんは言った。

それ、完全にアウトじゃないか。いや、例えとしては秀逸か。やれやれ、、、こんな朝からトラブルの匂いがぷんぷんだ。

六つの印影が語る真実

一つ一つ印影を照合していくと、どうやらこの委任状は相続に関するもののようだった。しかも、兄弟姉妹で財産分割について揉めていた形跡がある。

六つの印は、かつての所有者の兄弟全員のものと見られた。ただし、そのうち一人はすでに亡くなっている。それなのに、彼の印影がなぜ……?

私のミスか策略か

「もしかして、死亡後に押された印影があるってことか?」思わず声に出すと、サトウさんが腕を組んでうなずいた。「死亡届が出る前の委任……グレーですが、問題はその後の処理です」

確かに、死亡後の委任状は効力を持たない。私の事務所に持ち込まれたのは、グレーというより、真っ黒だった。

やれやれ、、、面倒な書類だ

印鑑の検証、関係者の生死確認、古い登記記録の照会……。司法書士というのは、紙とハンコの名探偵だと誰かが言っていたが、本当にその通りだと思う。

書類ひとつで人の人生が左右される。だからこそ、うっかりは許されない。私の人生はうっかりの連続だが、ここは外せない。

公証人との奇妙な一致

かつて別件で出会った公証人の記録に、似たような委任状が残っていた。たまたま保管されていた写しと照合すると、そこには六人目の印影はなかった。

つまり、誰かが後から一つ、勝手に足したのだ。犯人は、委任状の「信頼性」を偽装したかったのだろう。

登記簿から消えた所有者

実際の登記簿を確認すると、その所有者の名義はすでに変更済みになっていた。しかし登記原因が奇妙だった。「贈与」とされていたが、関係者によれば、そんな話は一度もなかったらしい。

贈与ではなく、誰かが押印を利用して勝手に手続きを進めた可能性が濃厚だ。関係者全員が知っていたとは限らない。

被相続人の名義が移っていた理由

被相続人の名義は、死亡の二週間後に移っていた。つまり、委任状が生きているように装ったうえでの申請だった。これは登記の虚偽申請であり、立派な犯罪だ。

「これ、警察に渡すべきですね」とサトウさんが言う。私は頷いた。うん、今回は書類だけでは済まない。

真犯人は誰か

委任状を持ち込んだ男は、ただの駒だった。彼は過去に兄弟の財産争いで精神を病んだことがあり、記憶も曖昧だったらしい。つまり、誰かに利用されたのだ。

真犯人は、六人兄弟のうちの一人。公証人の記録と照合しなければ、この罠には気づけなかった。だが、名前は挙がった。証拠も揃った。

「代理人」の影に隠された動機

犯人は、財産分割に不満を持ち、自分の取り分を水増ししようとしたのだ。そのために、亡くなった兄の印影を捏造し、委任状に押した。

しかし、彼の知らなかったことが一つあった。司法書士の私には、印影のわずかな違和感も見逃せないということだ。

サトウさんの冷たい指摘

「最初に気づいたのは、先生のうっかりですけどね」とサトウさんはぼそっと言った。うん、認めよう。私は、六つあるはずのない印影に最初は気づかなかった。

でも、最後に解決したのは私だ。そういうことにしておこう。いや、してください……。

結末と委任の意味

委任とは、信頼の証だ。しかし、それを悪用すれば信頼は一瞬で瓦解する。今回の事件は、その象徴だった。

委任状は偽りの記録となったが、それを暴いたのもまた、地味な司法書士の仕事だ。誰にも褒められはしない。だが、それでいい。

六つ目の印は誰のものだったか

結局、六つ目の印影は亡くなった兄のものでなかった。判明したのは、兄に成りすました弟が、自分の別名義の印鑑で押していたということだった。

印影は残るが、真実は隠せない。これが、司法書士の目の役割だと思う。

司法書士としての誇りを少しだけ思い出す

やれやれ、、、最後はなんとか決まったか。帰り際、サトウさんがひとことだけ、「今回はまあまあ頑張ったんじゃないですか」と言ってくれた。

……それが、今日いちばんの報酬だった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓