不動産登記の午前十時
事務所のドアがきしむ音とともに、男が一人入ってきた。小柄で皺の多い顔、手には厚手の封筒を抱えていた。机の前に座った彼は、開口一番こう言った。
「母が亡くなる数ヶ月前に、家を私に贈与したと聞いたんですが……登記が終わってないようなんです」
まるで預かった宿題を返しに来た小学生のようだったが、その言葉の裏には何かが隠れていた。
古びた家屋と妙な依頼人
調べてみると、その家は確かに母親名義のままだった。だが、印鑑証明書の写しと贈与契約書のコピーが手元に揃っている。不思議なことに、原本はどこにもなかった。
「なぜ贈与契約書の原本が無いのか…それに印鑑の押し方がどうも不自然だ」
そうつぶやいた僕に、隣で書類を見ていたサトウさんがぼそりと返した。「押したくなかったんじゃないですか?」
贈与契約書に潜む違和感
その一言に、何か引っかかるものがあった。契約書の日付は去年の十二月。だが、母親はその一週間後に脳出血で倒れている。筆跡も少し震えているように見えた。
「筆跡鑑定までは不要かもしれませんが、何かがおかしいですね」
サトウさんはファイルを閉じ、「無断で書類を作った可能性もあります」と言い放った。冷たいけれど、的確だった。
サトウさんの沈黙
その後の調査は難航した。法務局の登記簿を確認しても、変更の痕跡は無い。贈与の登記がされていない以上、法的効力もまだ宙ぶらりんだった。
「登記識別情報はありますか?」と尋ねると、依頼人は「捨てました」と答えた。うっかりか、それとも意図的か。
「やれやれ、、、また面倒な案件を引き受けてしまったか」心の中でそう呟いた。
一枚のコピー用紙から
ふと、コピーされた印鑑証明の発行日が目に入った。契約日よりも一ヶ月以上前だった。これは違和感がある。普通は直前に取得するものだからだ。
「計画的に作られた…いや、作らされた?」とサトウさんが独り言のように言った。
その時、何かのピースがハマったような感覚があった。
判を押したのは誰か
印鑑のかすれ具合、押す位置、そして紙質。すべてが「本人が押した」ようで「押していない」ことを暗示していた。
「これ、誰かが既に押してあった紙にあとから文言を書き加えた可能性があります」
僕の言葉に、サトウさんも頷いた。だが、それが誰なのかはまだわからない。
贈与の証明とその重み
念のため、近所の法務局に過去の登記申請履歴を取り寄せてみた。すると、数ヶ月前に同じ人物が他の不動産の贈与登記を申請して却下されていた記録が出てきた。
「同じ手口だな」と僕はつぶやいた。これは常習犯の可能性がある。
だが、証拠が弱い。このままでは登記申請ができず、話は立ち消えになるかもしれない。
成年後見と過去の記録
さらに調べてみると、亡くなった母親は一年前に軽度の認知症と診断されていたことがわかった。つまり、贈与の意思能力があったかどうかが問われる。
「意思能力の問題があったなら、贈与は無効になる可能性がありますね」
サトウさんが冷静に整理してくれたおかげで、ようやく全体像が見えてきた。
共有者の一人が行方不明
調査の過程で、家の共有名義だった叔母が長年行方不明であることも判明した。遺産分割協議もされていない。完全に複雑化していた。
「うーん…これは下手に手を出すと泥沼になるな」
僕の口から出たのは、まるで波平がカツオを叱るときのような深いため息だった。
やれやれという名の推理
すべての情報を並べ直すと、贈与は存在しないか、もしくは意思能力が曖昧な中で行われた。さらに印鑑も本人のものでない可能性が高い。
僕は改めて、登記申請を断る旨を丁寧に依頼人に伝えた。
「この案件、うちでは責任を持てません」と言うと、彼は肩を落として出ていった。
シンドウの過去と意外なつながり
事務所の引き出しにあった古い封筒が目に止まった。それは高校時代の野球部の寄せ書きだった。名前の中に、さっきの依頼人と同じ姓を見つけた。
「まさか、あのショートの弟か…」
そんな思い出が浮かび、少しだけ複雑な気持ちになった。
自筆証書の謎解き
後日、役所から一通の連絡があった。母親が生前に出していた遺言が見つかったという。それは全く違う人に家を譲ると記されていた。
「やっぱり、そうだったか」
これで贈与契約が虚偽であることが確定した。小さな達成感が胸に広がった。
サトウさんの一手
事件の収束後、サトウさんは冷静に言った。「あの依頼人、たぶん二度と来ないですね」
「そうだな。でも、また似たような話は来るかもな」
そう言うと、彼女は「それってつまり、やれやれ、、、ってことですよね」とニヤリと笑った。
登記識別情報が語る真実
その日の終わり、ふと机の上を見ると、登記識別情報の紙が残されていた。依頼人が忘れていったのだ。
僕はそれを封筒に戻し、机の引き出しにしまった。たとえ誰かが忘れても、真実はそこに残る。
「司法書士ってのは、探偵と紙一重だな…」そんなことを考えながら、夜の静けさに包まれた。