午前九時の来訪者
コーヒーが冷めるよりも早く
その日、事務所のドアが開いた音に、僕はいつものようにため息をついた。午前九時ちょうど。朝一番の来訪者というのは、えてして何かしら面倒を運んでくる。半分眠った頭で、僕はゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、十年前に別れた「彼」だった。ネクタイは歪んでいて、笑顔はぎこちなく、けれど目だけはあの頃と変わっていなかった。
「久しぶり」なんて月並みな挨拶すら出てこず、僕はただ無言で彼を見つめていた。
見覚えのある印鑑証明書
あの時の名前が目に刺さる
彼が差し出した書類の束の中に、ひときわ目を引くものがあった。印鑑証明書だ。記載された氏名を見て、僕の胸は妙な痛みで締め付けられた。
あの頃のままの名前。結婚していないことに、なぜかほっとした自分が情けなかった。
「土地を売ることにしたんだ」と彼は言った。その土地は、かつて二人で一度だけ見に行った、あの売れ残りの分譲地だった。
サトウさんの冷静な視線
記憶よりも現実を見ろと彼女は言った
背後から感じる視線に気づき、振り向くと、サトウさんが無表情にこちらを見ていた。書類の束を受け取りながら、彼女は僕の動揺を見抜いているようだった。
「シンドウ先生、委任状の書き方を説明した方がよろしいのでは?」と、あくまで業務的に言ってくる。まったく、どこまで読まれているのか。
記憶に酔っている暇なんて、この女の前では許されない。僕は姿勢を正して、手元の書類に目を通した。
委任状の中の空白
書かれていない想いに気づいた瞬間
委任状の受任者欄が空白だった。理由を尋ねると、彼は少し困ったように笑って言った。「それは、君の名前を書くつもりだった」
やれやれ、、、昔の恋人がこういうことをするから、こっちはいつまでも吹っ切れないんだ。
けれど、あの頃のままの優しさに、少しだけ胸が温かくなったのも事実だった。
旧住所が語る真実
転居届に滲んだ未練
彼の旧住所は、僕の事務所の近くだった。わざわざ引っ越してきていたのか、あるいは偶然か。
住民票を確認しながら、僕はふと、転居日が僕の誕生日と同じであることに気づく。
彼に直接は聞けなかったが、何かしらの意味を込めたのだろう。サザエさんで言えば、波平が突然花を買ってくるくらいの不自然さだ。
登録免許税は恋の重さではない
書類の山に紛れる想い出
土地の売却登記に必要な書類は山ほどある。登記原因証明情報、委任状、固定資産評価証明書。そして、登録免許税。
「金額が大きいな」と彼は言ったが、それはきっと登記の話だけじゃない。僕らの間に積もった時間も、似たようなものかもしれない。
事務的に処理しながらも、僕の手はどこかぎこちなかった。
忘れていたファイルの行方
あいつのクセが証拠だった
売買契約書の控えが一枚、どこにも見当たらなかった。おかしい。サトウさんが探しても見つからない。だが僕はふと思い出した。
彼には、書類を逆さまにファイルに綴じるクセがあったのだ。キャッツアイの怪盗三姉妹が残すサインのように、彼だけの「印」だった。
古いファイルを逆からめくると、案の定そこにあった。苦笑いしながら、僕はそれを取り出した。
登記官がつぶやいた違和感
数字が告げる裏切り
法務局の窓口で、登記官が首をかしげた。「評価証明書の金額と、売買価格が一致しませんね」
確認すると、契約書に記載された価格は実勢よりも極端に安かった。節税のためか、それとも別の意図か。
登記には関係ないとわかっていても、僕の中で小さな疑問が膨らみ始めた。
サトウさんの決め手
やっぱりこの人は只者じゃない
「これ、贈与じゃないですか?」とサトウさんが呟いた。売買価格が異常に安く、かつ相手が知人。しかも金銭授受の証拠が一切ない。
彼女の推理は正しかった。彼は土地を「売る」ふりをして、僕に無償で譲ろうとしていたのだ。
「迷惑かなと思って」と彼は笑った。まったく、迷惑なんて言葉じゃ足りない。恩を着せる気か。
やれやれ、、、恋と登記の後始末
最後に残ったのは所有権だけ
僕は契約書を破棄させ、正しい金額での売買契約をやり直させた。贈与にすると、贈与税が発生するし、何よりそれは「後ろめたさのある善意」だ。
彼は少し寂しそうに笑いながら、納得してくれた。所有権はきれいに第三者へ移転された。僕の心も、ようやく少しだけ整頓された気がした。
サトウさんがつぶやく。「感傷に浸る前に、登記完了報告書を作ってください」やれやれ、、、結局、恋も登記も書類で締めるんだ。