登記印紙が夜に咲いた理由
夜の事務所というのは、どうしてこうも書類が増えるのか。不思議で仕方がない。午前中には確かに片付けたはずの机の上に、またもや申請書の山ができていた。
その日の夜も、終わらない申請書類と格闘していた。疲れ切った目で印紙を貼ろうとしたとき、ふと手にした台紙に一枚、見覚えのない印紙が咲いていた。
妙に新しい色合いだった。貼られたばかりのように糊も濡れていた。だが誰が? この事務所に他に残っている者はいない。
ひとり残った司法書士の残業
冷蔵庫にあったコンビニおにぎりと缶コーヒーを片手に、私は夜の静けさと戦っていた。事務所の蛍光灯の音が、妙に神経にさわる。
「やれやれ、、、また誰かが余計なことをしてくれたのか?」と、ひとりごちる。印紙が勝手に貼られるなんて、サザエさんの花沢さんが波平の家に勝手に婚姻届を出したレベルの話だ。
不自然だが、法務の世界では偶然ほど恐ろしいものはない。何かが、どこかで、ずれている。
不可解な「余分な印紙」
金額も奇妙だった。申請に必要な印紙代は3000円のはずが、その紙には5000円の印紙が1枚。宛名もなく、余白も不自然に広い。
悪意か、それとも失敗か。だがこの種のミスは、ミスでは済まされない。登記に貼られる印紙は、そのまま国に対する意思表示であり、証拠でもある。
間違いを装った操作――それが司法書士の嗅覚にひっかかる唯一の「臭い」だった。
サトウさんの冷静な分析
朝、出勤したサトウさんは私の机を一瞥して、表情を変えずに言った。「先生、昨日の申請書、何か変じゃありませんでしたか?」
私は、机の上に置かれた例の印紙付き書類を指さした。「これさ、誰がやったと思う?」サトウさんは眉一つ動かさず、「貼ったのは依頼人じゃないですか」とだけ言った。
だが、その視線は書類ではなく、私の背後にあるファイルキャビネットを見つめていた。まるで、もうすべて見えているかのように。
朝の報告書に潜む違和感
通常の朝一番の業務である、昨日の提出書類チェックの報告。サトウさんが作成したリストには、あの印紙付き書類がなかった。
つまり、それは「正式な提出書類」ではない。だが、存在している。事務所内で誰かが後から差し込んだ。あるいは、最初から何かが隠されていたのか。
それをサトウさんは、何も言わずに気づいていたのだろう。
領収証綴りから消えた一枚
印紙の出どころを探るべく、私は領収証綴りを確認した。印紙を購入すれば、必ず帳簿に記載される。そしてそこには、確かに5000円分の購入記録があった。
だが、帳簿の下のページが一枚、切り取られていた。ホチキスの針は2つ、残っていた痕は3つ。つまり、ページを差し替えた形跡がある。
その瞬間、事務所の静けさの中に、冷や汗が背筋を伝った。
依頼人と遺産分割の罠
今回の依頼は、地方にある古い家屋の相続登記だった。依頼人は兄妹の2人。兄は無口で堅物、妹は明るく世話好きで印象は良かった。
が、あまりにも「話が合いすぎる」ことに、最初から一抹の不安はあった。相続には、どこか必ず綻びがあるものだ。それが全くないことが、逆に不自然。
そして、印紙が咲いたのは、ちょうど遺産分割協議書の提出日と重なっていた。
兄妹の登記依頼に潜む不協和音
妹の方から送られてきた書類に、兄の署名押印があった。だが、実際に本人が登記所に来たときの筆跡と、どこか違うように見えた。
私は元野球部のくせに几帳面な性格なので、こういう違和感をスルーできない。印影もわずかにずれていた。インクのにじみ方が、妙に新しい。
つまり、誰かが兄の署名を真似て、書類を再作成した可能性がある。
怪しい「仮押さえ」と現地調査
登記簿を見ると、以前の仮登記が妙なタイミングで抹消されていた。たった1週間の差。理由は記載されていなかった。
私は現地へ赴き、法務局と市役所の間を何度も往復した。やはり――その土地には「ある事件」の記録があった。所有者不在のまま売却された形跡だ。
つまりこの相続、最初から誰かが「仕組んでいた」のだ。
やれやれ、、、また余計な仕事だ
事務所に戻り、サトウさんに報告した。「この案件、完全に黒だ。兄の署名は偽造。妹が勝手に申請してたんだ」
サトウさんはいつもの調子で淡々と「知ってました」と返した。だったら早く言ってくれよ、、、。
「やれやれ、、、結局最後に汗かくのは俺なんだよな」とぼやきながら、私は訂正申請と不正報告の準備に取りかかった。
古い封筒と古い恋文
実は、切り取られた帳簿ページの裏には、印紙とは関係ない封筒が貼りついていた。中には、若いころの兄の手紙。妹宛てではない。
まさかの三角関係。だが事件には関係ない。少なくとも直接は。ただ、人の心の奥の「咲かない花」は、ときに思わぬところで花開く。
この印紙も、そういう花のひとつだったのかもしれない。
真夜中の登記簿閲覧室
誰もいない登記簿閲覧室で、私は古い申請記録と向き合っていた。サザエさんのエンディングのように静かな時間が流れる。
けれど静かすぎると逆に眠れない。私はコピー機の音に目を覚まされ、ある1枚の写しに目を留めた。そこには、妹の筆跡で「咲いた」と書かれていた。
それは、兄の死後1年目に貼られた5000円印紙。生きていた証のように、記録されていた。
照らされた写しと記憶
印紙に光を当てて見ると、裏にメモが透けて見えた。「ごめんなさい」と、震える文字。きっと妹は、兄の死に耐えられなかったのだ。
でも、それは罪を消す理由にはならない。私はその紙をそっと封筒に戻し、再提出書類の山に添えた。
誰かの心が咲くとき、それは同時に誰かの時間が止まるのかもしれない。
サトウさんの推理と手帳の一行
事件後、サトウさんは手帳に一行だけ書き足していた。「印紙は咲くものではない。貼るものだ」
それを読んで、私はようやく笑えた。「やっぱり君、ただ者じゃないな」
サトウさんは「はい」とだけ答えた。感情はない。でもその言葉に、少しだけあたたかさがあった。
「申請人は二人いたのでは?」
サトウさんが最後に示した仮説――「申請人は本当は二人いた」――が、すべての矛盾を解いていた。
兄は生前、相続の申請を試みていた。だが病に倒れ、その意思は妹に託された。しかし妹は誤った方法でそれを実現しようとした。
正義と情は両立しない。けれど、それをどう処理するかが我々司法書士の役割だ。
最後の一筆と真相の糸口
訂正された申請書に、私は最後の署名を記した。法的に正しい処理がなされ、妹には警告書が届く。
その後、彼女からの謝罪文が届いた。そこにはただ、「兄の夢を叶えたかった」とだけ書かれていた。
印紙は咲いた。その花の意味を知る者は、きっとあの夜の事務所の静けさを知っている者だけだ。
印紙の花が咲いた瞬間
私は封筒をそっと棚に戻した。印紙の色は褪せ始めていたが、そこに咲いた想いは、たしかにあった。
机の上のカレンダーには、もう次の申請日が書き込まれている。何事もなかったかのように日常は続く。
だが私はもう知っている。この仕事の裏に、誰かの秘密が咲いていることを。
それでも仕事は終わらない
夜が明ける。新しい依頼の電話が鳴った。サトウさんはもう来ていた。私の机の横に、また新しい書類が積まれていた。
やれやれ、、、。今日もまた、花は咲くのだろう。誰にも気づかれないままに。
そして私は、また印紙を手に取り、静かに咲かせるのだ。