登記簿にいない同居人

登記簿にいない同居人

午前九時の訪問者

午前九時ちょうど、まだコーヒーの香りが事務所に漂っている時間帯だった。古びたスーツを着た女性が戸口に立っていた。年齢は三十代後半、表情は疲れ切っている。ドアの前で一瞬躊躇した後、彼女は静かにこう言った。

「一緒に住んでいた人の存在が、どこにも残っていないんです」

登記簿、住民票、契約書——どこを探してもその“誰か”の記録はないという。私は書類の束を前に眉をひそめた。

忘れられた同居人

「その人の名前は?」と訊くと、彼女は口ごもった。「…名前が思い出せないんです」

いやいや、そんな馬鹿な。記憶喪失か、それとも虚偽の相談か。だが、彼女の話す「その人」の存在は、生活の細部にわたってリアルだった。冷蔵庫にいつも残されていた半分のプリン。洗面台に落ちていた短い髪。サザエさんで言えば、まるで「波平がいない磯野家」のような、違和感。

これはただ事ではない。私はそう判断した。

妙に控えめな依頼内容

「登記簿を調べて、その人が“居たこと”を証明できますか?」

依頼の核心はそこだった。だが、司法書士の仕事は“存在を証明する”ことではない。記録された事実を扱うだけだ。記録されていない人間に対して、私ができることはほとんどない。

「やれやれ、、、この手の依頼は厄介だ」

戸籍と住民票の違和感

まずは住所の記録を追った。住民票には彼女一人の名前だけ。戸籍も転籍なし。

おかしい。賃貸契約書には共同名義の記載があったはずだが、提出されたコピーには記名が一つしかなかった。

だが、それは彼女が言う「同居人を消したい誰か」が書類を差し替えた可能性を意味していた。

住所はあるのに人がいない

その物件はワンルームではなかった。二LDK。共同生活を想定した間取りで、しかも郵便受けはふたつ分あった痕跡がある。

私は彼女とともに現地へ赴いた。管理会社はすでに別の会社に変わっており、当時の記録は「破棄済み」だった。あまりに都合がいい話だ。

「本当に存在してたんでしょうか?」と彼女に訊くと、彼女は「はい」と強く頷いた。

なぜか抹消された記録

念のため、旧管理会社の登記記録と取引履歴を追った。驚いたことに、そこには一人だけ、短期間在籍していた不動産社員の記録があった。

名前を見た瞬間、彼女の目が揺れた。「その人です」

だが、彼の名前はどの契約書にも載っていない。社内でも「姿を見かけた者はいなかった」とのことだった。

鍵を持つ者

彼女は今もその物件の鍵を持っていた。しかも合鍵が一本、多いという。

「この鍵は、私が作ったものではないんです。元々、彼が…」

私は鍵屋の協力を得て、その合鍵の作成履歴を確認した。すると、ある商業施設内のキーカウンターで作成されたことが判明した。

合鍵を握っていたのは誰か

そこで防犯カメラを確認すると、作成時刻に姿を現したのは……彼女だった。

「これは……?」と訊くと、彼女は青ざめて首を振った。「違う、そんなはずない……」

彼女は嘘をついていたのか、それとも——

居住実態の証明という落とし穴

居住の実態は契約ではなく、生活の痕跡にある。ゴミ出し記録、防犯カメラ、電気の使用状況。

だが、いずれも「彼」が暮らしていた証拠を示していなかった。逆に、彼女の単独生活を裏付ける記録しか出てこなかった。

「私は…私は誰と住んでいたの?」

サトウさんの仮説

私が混乱していると、隣で静かに書類をめくっていたサトウさんが口を開いた。

「それ、想像上の人物ですね」

彼女の声には確信があった。私は驚いて振り返った。

記憶ではなく登記を追え

「シンドウさん、あなたが昔扱った案件です。2019年の4月、女性の精神的ケアに関する任意後見契約、覚えてます?」

その名前を見て、私は記憶の底から何かが引っ張り上げられるのを感じた。あのとき、彼女は既に誰か“いない人”の存在に縛られていた。

そして今も、その影を登記で探している。

古い契約書が語るもの

過去のファイルを引っ張り出し、任意後見契約の記録を開いた。そこには、精神的支援のために“同居人の存在を設定した”と医師のメモが残されていた。

「見えない人でも、いることにしておくと、心が落ち着くんです」

彼女は、その“仮想の同居人”と三年間も暮らしていたのだ。

元同居人の正体

その名は、実在しない架空の人物。過去に担当医と彼女が考えた“支え”だった。

だが、その記録も封印されていたため、彼女自身の記憶にのみ残っていた。

彼女は涙ぐんで言った。「でも…確かに一緒に笑ってたんです…」

書類の余白にあった名前

契約書のメモ欄に、彼女がこっそり書いたと思しき手書きの名前があった。「トオル」

私はそれを指でなぞりながら、小さく呟いた。「登記には載らなくても、あなたの心にはいたんですね」

この事件は、証明できないけれど、消し去ることもできないものだった。

不動産会社の元社員との接触

“彼”のモデルになったのは、以前彼女が好意を抱いていた不動産会社の社員だった。

その後、異動で関係は途絶えたが、彼の面影だけが記憶に焼き付いていたのだろう。

「もしかして…全部、自分で作ってたのかもしれません」

事件の裏にある意図

彼女の“依頼”は、存在しない誰かをもう一度見つけて、納得したかっただけなのだ。

司法書士としてできることはなかった。だが、私はただ一つだけ、できたことがある。

「これ、私が預かっておきます。記録じゃなくて、気持ちの整理として」

誰が何を消したがっていたのか

誰かが記録を消したのではなかった。消えていたのは、彼女の心の奥にあった願望そのものだった。

「大丈夫です」とサトウさんが静かに言った。「その人は、あなたの中にずっといたんです」

私は静かに頷いた。

うっかりが拾った真実

「うっかり鍵屋の領収書を保存しておいてよかったですね」とサトウさん。

「ま、たまにはうっかりも役に立つってことさ」

私は鼻の頭をかきながら、空を見上げた。

結末の見取り図

事件は解決しなかった。だが、彼女の心のなかではひとつの区切りがついたようだった。

サトウさんは書類を丁寧に綴じながら、「こんなの、推理小説になりませんね」と言った。

「いや…これはこれで、ミステリだろ」と私は返す。

登記簿には記されない証明

存在の証明は、必ずしも紙の上だけにあるとは限らない。

人の心に残る記憶こそ、何よりも確かな登記なのかもしれない。

やれやれ、、、今日もまた不思議な事件だった。

サトウさんのため息と僕の独白

「でもやっぱり記録がないと困ります」とサトウさんがため息をつく。

私はこっそり、彼女のカップに砂糖を多めに入れておいた。いつか気づいて、ちょっとでも甘い反応が返ってくることを期待して。

やれやれ、、、それが一番証明困難な願いかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓