静かな依頼人
遺言書作成の相談
午後の陽が傾きかけたころ、事務所のドアが控えめに開いた。紺色のワンピースに身を包んだ中年の女性が、静かに一礼して椅子に腰を下ろした。声も静かで、ほとんど囁きに近いトーンだったが、確かにこう言った。
「遺言書を作りたいんです。急いで、お願いできますか」 その目は何かを決意したように澄んでいて、迷いがなかった。
何かを言いかけてやめた表情
書類を整えながら、ふと彼女がペンを持った手を止めた。 「これで、全て……」と呟いたあと、口を開いたまま言葉を飲み込んだ。 私はその沈黙に気づきつつも、あえて踏み込まず、形式的に手続きを終えた。
彼女の目は、どこか遠くを見ていた。 言いかけた一言は、きっと大事な言葉だったのだろう。
サトウさんの違和感
香水の残り香と指先の震え
サトウさんがファイルを受け取ったとき、ふと眉を寄せた。 「この人、緊張してましたね。ペンを持つ手が震えてた。それと、香水が少し強かったです」 そう言って彼女は書類を束ねながら、遠くを見た。どこかで何かが引っかかったようだった。
たしかに、事務所にはわずかにバラの香りが残っていた。 それが、あとになって手がかりとなるとは思いもよらなかった。
依頼人の言葉の選び方
サトウさんは慎重に遺言書の文言を読み込んでいた。 「『大切に思っていました』……感情がぼやけてる。普通なら『愛していた』と書きますよ」 確かに、そこには何かを隠すような曖昧さがあった。 感情があるようで、でも核心には触れていない。
愛を残したい理由
相続人に伝えられなかった気持ち
遺言の受取人は、遠く離れた親戚の娘だった。 電話で話を聞くと「小さい頃に一度だけ会いました。優しい人でした」と言う。 けれど、どうしてその子に?という疑問は拭えなかった。
「きっと、最後に“愛してる”って言いたかったんでしょうね」 サトウさんがぽつりと呟いた。私は無言でうなずいた。
文面にない感情の輪郭
遺言書には一切感傷がなかった。 形式的で、冷静で、法的には完璧だった。 だが、完璧すぎた。まるで感情を封じるために、わざと事務的に仕上げたようだった。
急報と遺体発見
依頼人が遺した封書
三日後、その女性が自宅で亡くなっているのが発見された。 机の上には、封筒がひとつ。宛名も差出人も書かれていない。 警察が形式的に私に確認を求めてきたのは、その中身が司法書士事務所宛だったからだ。
遺言書とは別の一枚
封筒の中には、震える文字で書かれた便箋が一枚入っていた。 「本当は、あの子の父親は私の最愛の人でした。伝えられなかった言葉を、遺しておきたくて」 それは、遺言書には決して記されない、けれど一番伝えたかった想いだった。
関係者の証言
愛人と噂された女性の涙
近所の人からの証言で、故人には長年付き合いのある「友人」がいたことがわかった。 「でもそれ以上じゃなかったですよ、たぶん……。ただ、ずっと一緒にはいました」 その女性は取材中にぽろぽろと涙をこぼした。
家族が知らないもうひとつの顔
親戚に確認しても、亡くなった女性のプライベートはほとんど知られていなかった。 「昔から大人しい人でしたから」 それだけで片付けられてしまうのは、どこか虚しい。誰かの想いが見過ごされるのは、切ない。
証拠と記憶のすれ違い
登記簿に残された名前
不思議なことに、彼女が所有していた不動産の登記簿には、共同名義で見知らぬ男性の名前が記されていた。 調査の結果、その男性は数年前に亡くなっていた。 サトウさんがすかさず言った。「これが多分、“あの子の父親”ですね」
「言わなかった」ことの意味
彼女はずっと、自分の中だけで愛を抱えていた。 言ってしまえば壊れると思ったのかもしれない。あるいは、自分がその資格がないと思ったのかも。 どちらにしても、それは彼女の選んだ「優しさ」だったのだろう。
サトウさんの分析
手紙に残された癖字
サトウさんは筆跡をじっと見つめていた。 「この“た”の書き方、以前の契約書と違いますね。もしかして、手が震えてたとか…」 自分の気持ちを初めて書くとき、人は文字すら変えてしまうものなのかもしれない。
遺言の文言の変化
正式な遺言と、手紙とでは語彙の温度が違った。 一方は冷たく、一方はあたたかい。 それはまるで、怪盗キッドが変装を解く瞬間のような、真実への変化だった。
真相へのたどり着き
嘘と沈黙の使い分け
本当の嘘は、言わなかったことなのかもしれない。 言えば傷つけると思って沈黙した、その優しさこそが一番深い謎だった。 まるで、コナンくんが最後に「言わない選択」をするときのように。
最後に愛してると言えた人
彼女が遺した手紙は、法律上の効力はない。 だが、それはきっと、あの子にとって「愛してる」と言われたようなものだったのだろう。 それでよかったのだと、私は思う。
やれやれ、、、
気づかないふりをした優しさ
机に戻ると、サトウさんが淡々と次の案件のファイルを差し出した。 「はい、次は相続登記です」 やれやれ、、、人の心も登記簿に書けたら楽なんだけどな。
シンドウの肩越しの空
窓の外には、秋の雲がゆっくり流れていた。 伝えられなかった言葉が、どこかで風に乗って届いていればいい。 私は黙って椅子にもたれ、深く息を吐いた。
言わなかった最後の一言
遺された者が拾う気持ち
その子は、母の手紙を受け取って涙を流した。 「この人の気持ち、伝わってきました」 一言も愛してると書いていなかったのに、確かに伝わったのだ。
届かぬ想いの落としどころ
愛とは、届けようとする気持ちそのものかもしれない。 言葉にならないこともある。だからこそ、私たちは証拠を集め、心を読む。 そして今日もまた、静かに「事件」を閉じるのだ。