雨の朝に届いた一通の封筒
朝から雨が降っていた。天気予報では曇りだったはずなのに、事務所の窓を叩く雨音が思いのほか強い。ポストに差し込まれていた茶封筒は、そんな湿気をたっぷり吸っていた。
封を切ると、1枚の委任状と印鑑証明書が出てきた。それだけなら日常茶飯事なのだが、肝心の依頼者名が目に覚えがない。だが、実印は間違いなく押されていた。
サトウさんの眉間にしわが寄る
「この委任状、おかしいですね」とサトウさんが言った。しわ寄せた眉間からは、あきらかに「また何か面倒を拾ってきたな」というオーラが滲み出ている。
僕は背中を丸めながら、言い訳の準備を始めた。だが心当たりがない。実際にこんな名前の依頼者に会った記憶がまるでない。
見覚えのない委任状と実印
委任状の記載は丁寧だった。登記内容も問題なく、形式も正しい。だが、それが逆に不自然だった。こんなに完璧な書類を、なぜ見覚えがないのだろう。
実印の印影を確認するが、登録されたものと一致している。何かが噛み合っていない。それでも手続きは進められる……だが、それでいいのか?
登記の申請ミスでは片付かない
僕は意を決して法務局に連絡を入れた。「同じ実印で最近申請があったかどうか」確認すると、驚くべき答えが返ってきた。「3日前、隣の町でまったく同じ印影の書類が提出されています」と。
誰かがこの印鑑を使っている。二重申請の可能性がある。いや、それ以前にこの実印は誰のものなのか、本当に本人の意思なのか。
依頼人の記憶違いの裏にあるもの
住所地の登記簿を確認し、そこに住む依頼人に直接電話をかけてみた。「その委任状、私、出してません」と、彼はきっぱりと言い放った。
つまり、実印が押されていたのに、本人は知らない。これは印鑑の不正使用だ。そう確信した僕は、背筋がひやりとした。
過去の登記に潜んだ違和感
過去の案件を掘り返してみた。すると、同じようなケースが2件あった。別の依頼人、別の土地、だが使われていた印鑑は……まったく同じだったのだ。
これは偶然か? いや、そう思いたいだけだった。もしかして、どこかに「実印そのもの」を盗用している人間がいるのではないか。
消えた証書と空白の一日
ちょうど1年前の資料がごっそり抜け落ちていることに気づいた。ファイルには「住宅ローン完済登記」と書かれたメモだけが残されていた。
その日は僕が熱を出して寝込んでいた日だった。事務所を閉めていた記録もある。だが、その空白の一日に何かがあった可能性がある。
隣町の法務局で見つけた手がかり
僕は車を走らせ、隣町の法務局へ向かった。閲覧室で申請書のコピーを見せてもらう。そこにあったのは、僕の事務所の名前と印、そしてサトウさんの筆跡だった。
いや、正確には「サトウさんに似た」筆跡だ。サトウさんに確認を取ると、彼女は冷たく言い放った。「これ、明らかに模倣ですね」
もうひとつの実印の存在
僕の頭の中に浮かんだのは、過去に依頼人がうっかり置き忘れていった印鑑のことだ。あの時はすぐに返却した……はずだった。
しかし、記録には「返却」の記載がない。そして、印鑑が返送されたという郵便記録も存在しなかった。まさか、僕の事務所から印鑑が盗まれていた?
サザエさんみたいにドジな依頼人?
「まるでサザエさんの世界ですね」とサトウさんがぽつりとつぶやいた。「印鑑忘れて、それが悪用されて。のんびりしてる場合じゃないですよ」
ドジな依頼人の責任か、それとも管理の甘かったこちらの責任か。いや、どちらでもない。問題は、誰が印鑑を使って何をしようとしているかだ。
やれやれ、、、この仕事は心が休まらない
僕は頭をかきながら机に戻った。やれやれ、、、こんなに胃の痛くなる事件は久しぶりだ。だが、これも司法書士の仕事の一部だ。
誰も見ていないところで、書類が語る真実を読み取る。それができなければ、ただの書類運びに過ぎない。そう自分に言い聞かせた。
サトウさんの冷静な分析
「これ、あの元補助者の仕業じゃないですか?」と、サトウさんが言った。確かに、1年前に辞めた元補助者は印鑑や書類に詳しかった。
しかも彼は、実印を偽造する技術にも精通していた。当時は穏やかに辞めていったが、もしかして……。
真犯人は机の下にいた
その日の夕方、僕は何気なく机の下をのぞいた。そして、そこにある小箱を見つけた。中には3本の実印が入っていた。
すべて依頼人のものであり、僕が返却したつもりだったものだ。つまり、誰かがそれを密かに持ち出していたのだ。
最後のページに残された筆跡
保管されていた台帳の最後のページに、妙な筆跡が残っていた。それは、あの元補助者の書く「カタカナのシ」が特徴的な形で書かれていた。
完全に一致した。証拠としては十分だ。あとは警察に任せるだけだ。
実印が示す人間関係の終着点
実印とは、信頼の証だ。だが、それを悪用する者がいれば、簡単に崩れてしまう。そして、その信頼は、慎重に築き直すしかない。
僕は依頼人に頭を下げ、改めて手続きをやり直すことを伝えた。「信頼」は時間がかかるが、崩れた信用は、まず自分が回復させねばならない。
書類が静かに語り出すとき
事件は無事に解決した。とはいえ、僕の事務所に残るのは、湿った封筒と、戻ってきた3本の実印、そして少しだけ落ち込んだ僕の背中だった。
「次からはちゃんと管理してくださいよ」とサトウさんに言われて、僕は小さくうなずく。書類たちは何も言わない。ただ、静かにすべてを知っていた。