朝のコーヒーと一本の電話
朝の静寂を破るように、事務所の電話が鳴った。まだコーヒーに口もつけていない。相手は喪服のような声で、亡くなった父の土地の名義について相談したいという。
その土地の住所を聞いた瞬間、どこかで見覚えがあるような気がしたが、すぐには思い出せなかった。ただ、何か引っかかるものが胸の奥に沈んでいた。
仕方なくメモを取り、後で登記簿を確認することにした。「やれやれ、、、」コーヒーの香りだけが、唯一の安らぎだった。
事務所に鳴り響く不穏な呼び出し音
その電話はただの依頼ではなかった。声の向こうに、何かしらの重たい事情を感じ取った。単なる相続登記のはずが、なぜか妙な緊張感があった。
「名義が変わっていたらどうなりますか?」と震える声で問う依頼者に、私は一瞬黙った。普通の質問にしては、何かが違う。事務的な手続き以上の「何か」が絡んでいるような気がしてならなかった。
このときの直感は、後に大きな意味を持つことになる。
訪ねてきたのは喪服の姉妹
午後、事務所のドアを開けて入ってきたのは、黒い服に身を包んだ姉妹だった。年齢は私より少し若い程度で、二人とも表情に疲れが滲んでいた。
「父が亡くなって、土地のことで揉めていまして…」と姉の方が話し始めたが、妹はあまり口を開かなかった。ただ何度か、「あの家にはもう誰もいない」と呟くのだった。
私はファイルを開き、該当の土地の登記事項証明書を印刷した。だが、そこには不自然な情報が記されていた。
被相続人の家には誰もいないはずだった
登記簿上、所有者はまだ亡くなった父のままだと思っていた。だが実際には、数か月前に「所有権移転登記」がなされていた。
しかも、その移転先は依頼者の誰でもない、全く無関係な名前。住所も電話も不明だ。これには依頼人たちも目を見開いて驚いていた。
「そんな人、聞いたことないです…」と姉が言った。妹は何かを思い出すように、じっと沈黙したままだった。
シンドウの昼下がりのうっかり
このあと私は、法務局に出向き原本を閲覧した。そこで、うっかりして古い登記簿も一緒にコピーしてしまった。手元には2枚の登記事項証明書。
「やれやれ、、、また余計な仕事増やしちまったか…」と苦笑いしつつ、古い方の登記簿を見て、私は目を疑った。そこには、別の住所が記されていたのだ。
しかも、それは現在の法務局データベースでは抹消された記録だった。
そこにだけ記された知られざる住所
その住所は市街化調整区域にあり、今は誰も住んでいないはずの場所だった。だが登記には、建物の存在が記されていた。奇妙なことに、現地地図では何もない。
サトウさんに報告すると、彼女は淡々と「現地、見てきた方がいいですね」とだけ言った。まるで心の中を読まれたようだった。
私は面倒くささを飲み込んで、翌日現地へ足を運ぶ決意をした。
サトウさんが冷静に指摘する違和感
出発前、サトウさんが一枚の固定資産税通知書を見せた。「この土地、数年前から課税止まってるんですよ。死亡通知が市に届いてないなら、これはおかしいです」
私は彼女の言葉にうなずきながらも、疑問が膨らんでいく。公図上にはない、課税もされない、しかし登記にだけ存在する建物。
それはまるで「記録の中だけで生きている幽霊屋敷」のようだった。
固定資産税の課税が止まっていた謎
市役所に確認すると、確かに数年前から課税が止まっていた。理由は「建物の現存が確認できなかったため」だという。
だが、亡くなった父はその後も誰かと一緒に住んでいた形跡がある。生活インフラはすべて継続されていたのだ。
ならば、その「誰か」は一体誰だったのか。私は、寒気のようなものを感じ始めていた。
鍵を握るのは「誰が申請したか」
更生登記、あるいは所有権移転。問題は「申請人」だった。登記原因に添付された書類に、その人物のサインがある。
だが、その名義人は数年前に亡くなっている。つまり、死後に申請されたことになる。
まさか――偽造か?あるいは、それよりもっと巧妙な何かか。
申請者は既に亡くなっていた
本人確認情報として提出されていた書類は完璧だった。身分証、委任状、印鑑証明。だが、それらすべての発行日は、死亡届が受理された後の日付だった。
「誰かが、生きているように見せかけていた…?」そう口に出した瞬間、サトウさんの目が細くなった。
「シンドウさん、これはもう“司法書士業務”の範疇じゃないですよ」彼女の言葉は、正しかった。
亡き人が遺した登記簿の証言
古い登記簿、筆跡、そして申請人のサイン。私はそれらを拡大コピーし、手元で照合した。筆跡が微妙に異なっていた。
「これ、たぶん同一人物じゃないですね」とサトウさん。私はうなずいた。登記簿が、持ち主の死後もなお語りかけてくるようだった。
まるで、名義の陰に隠された人生の断末魔が、ここに記されていたように思えた。
まるで“死後のメッセージ”のような記録
それはきっと、誰かが見つけてくれることを願った証だったのだ。私はそれを、ようやく受け止めることができた。
真実は登記の隙間から、ひっそりとこちらを見ていた。そして今、ようやく声になったのだ。
まさに「登記簿が語る最後の声」だった。
やれやれ、、、ようやく繋がった真相
犯人は、父親を介護していた訪問介護員だった。数年間の生活の中で信頼を得て、死後も一緒に住み続け、ついに書類を偽造して土地を自分のものにしようとした。
だが彼女の筆跡と、登記上のサインが一致せず、ついには偽造と不正取得が発覚。被害届が出された。
私はようやく重たい荷を下ろし、コーヒーを入れ直した。今度こそ、温かいうちに飲めた。
名義をすり替えたのは生前の介護人
法務局と警察の連携で、偽造書類は無効とされ、土地は正式に姉妹へと戻された。依頼人たちは涙を浮かべながら、深く頭を下げて帰っていった。
私は、彼女たちの父が少しでも安らかに眠れるよう祈った。そして一人、事務所の椅子に座った。
「やれやれ、、、終わったな」
サトウさんの一言と夕暮れの事務所
夕陽が差し込む中、サトウさんが呟いた。「人は嘘をつきますけど、登記は正直ですね」
その言葉が、今日一日のすべてを物語っていた。私は少しだけ笑った。
「登記簿って、まるでサザエさんのエンディングみたいだな。毎回違うのに、最後にはちゃんと戻る」
コーヒーが冷めても 謎は冷めなかった
カップの底には、まだ温かみの残るコーヒーがあった。謎は解けた。でも、また次の事件が訪れることを、私はもう知っている。
司法書士は、時に死者の代弁者になる。そんな仕事だ。私は、明日もまた登記簿を開くだろう。
コーヒーと、ため息と、そして少しの勇気と共に。