始まりは一枚の登記申請書
机の上に置かれた申請書を見て、俺は首をかしげた。文字の端が妙に揃っていない。まるで、誰かが上から書き直したような違和感。サトウさんが言った。「この申請書、登記原因のところが空白ですよ」。
俺はうっかりしてたことに気づいた。だが、ただの記入漏れにしては、少し不自然だった。書かれていないというより、消した跡があるようにも見えたのだ。
ミスと気づいたのは誰だったのか
最初に気づいたのは、俺じゃなかった。サトウさんだ。彼女が指摘するまでは、俺はそのまま法務局に持って行こうとしていた。「これ、訂正印も押されていませんし」と、冷たく言い放たれた。
まったく、毎度ながら頭が上がらない。俺の事務所は、もはや彼女で成り立っているようなものだ。やれやれ、、、だ。
不自然な空欄と一つ足りない数字
空欄だったのは、所有権移転の「原因」欄。通常なら「売買」や「相続」などの文言が入る。ところが、この書類は真っ白。そして、固定資産評価額の下にある金額欄が「三千八百十円」になっていた。
だが、固定資産評価証明書には「三千八百十五円」とはっきり記載されていた。わざわざ五円を削る理由とは? 些細な数字のズレが、奇妙な違和感を呼び起こした。
依頼人は二人組だった
申請人として現れたのは、中年の男と若い女。二人は親子とも、夫婦ともつかない距離感で並んで座っていた。「代理で来ました」という男の言葉に、俺は少し身構えた。
委任状もあったし、印鑑証明も揃っていた。ただ、なぜか女の方が終始黙っていた。名前は「ユイ」とだけ言った。どこかで聞いたような気がしてならなかった。
申請人と代理人の不可解な関係
後で調べてわかったことだが、二人は戸籍上はまったくの他人だった。にもかかわらず、なぜ代理申請が可能だったのか。委任状に添えられた書類の署名は、どこか妙に震えていた。
筆跡が違う——そんな直感が働いた。俺は古い登記簿を調べてみることにした。サザエさんがじゃんけんでパーを出すように、なんとなく「これはグーじゃない」と思えたのだ。
サトウさんの冷たい視線
「調べすぎると面倒なことになりますよ」と、彼女はコーヒーを淹れながら言った。俺が何も言ってないのに、すべてお見通しだ。塩対応というより、もはや氷対応だな。
だが彼女が一言付け加えた。「でも、調べた方がいいと思います。気になりますから」。俺は黙って頷いた。サトウさんがそう言うなら、それが真実なんだろう。
古い登記簿の奥に眠る名前
法務局で閲覧した登記簿の写しには、見慣れない名義人の名前があった。しかも、その名義人は三年前に死亡している。現在の所有者は、その弟名義になっていたはずだった。
だが、移転登記がされていない。相続もされていない。つまり——不動産の名義は、三年前の死者のままだったのだ。それなのに、今回提出された書類には「売買」とあった。
旧姓のままの持ち分割合
そして、ユイの名字が妙だった。旧姓のままで記載されていた。現在の戸籍に一致しない。これは、何かを隠すための擬態ではないか。俺はまた手帳を開いた。
今週のサザエさんはお休みだった。代わりにドラマの再放送が流れていた。やれやれ、、、調べものに集中できると思ったが、どうにも脳がテレビに持っていかれる。
訂正印が押されなかった理由
ふと、手元の申請書に戻る。訂正箇所に訂正印が押されていない。つまり、それは——「訂正ではなく、最初から意図的に空欄だった」ことを示している。
この空白は、うっかりではない。証拠隠滅だ。司法書士の書類において、空欄とは最も危険な伏線。俺はそう確信した。
地元金融機関の闇
この土地はかつて、地元の信用金庫が担保に取っていたものだった。俺は古い抵当権抹消の記録を調べた。すると、そこに一人の銀行員の名前が浮かんだ。
三年前、死亡したはずの元名義人の娘とされるユイが、保証人として書かれていた記録がある。しかし、その記録は数日後に訂正され、削除されていた。
知られては困る取引履歴
つまり、申請書を出した彼らは、土地を売りに出す前に、過去の金融トラブルを抹消したかったのだ。訂正印を押さずに、白紙で提出したのは、証明しようのない過去をなかったことにするためだった。
だが、書類の記録は消せても、印鑑の位置のズレや、余白の異常は消せない。俺はそのズレを法務局に指摘した。調査が始まり、二人は呼び出されることになった。
手帳に残されたメモ
俺の手帳には、依頼当日のメモがあった。「午後四時半、二人組、女は時計を気にしていた」。その時間、サザエさんの放送直前だった。「五時前には絶対に出たい」と彼女は言っていた。
アリバイ作りだったんだな。テレビが証人になりうる。それを見ていたという事実が、どこにいたかの決定的な証拠になる。逆に言えば、その時間に焦っていたことが、犯行の兆候でもある。
そこにいたはずの証人がいない
近所のクリーニング店に彼女が行ったと言っていたが、店は定休日だった。つまり、アリバイが成立しない。書類の改ざんも含め、すべてが虚偽の上に成り立っていた。
俺たちはその証拠を整え、関係機関に通報した。あとは、捜査の範囲だ。
逆転の決め手は一文字の誤り
最後の決め手となったのは、たった一文字。「三千八百十円」の誤記だった。これにより、印紙税の金額が変わり、偽装申請であることが発覚した。
小さな数字の誤りが、大きな嘘を暴いた。あとは検察と裁判所の出番だ。
司法書士の目が見逃さなかった真実
俺たち司法書士は、細部に目を凝らすのが仕事だ。だが、それは登記の正確性のためだけではない。人の心のゆがみも、数字や文字の中に現れる。今回もそうだった。
サトウさんは呆れた顔で言った。「最初から見抜いてたくせに、最後まで気づかないフリしてましたね」。いや、ほんとに気づいてなかったんだってば。
訂正印の空白が語る犯人の心理
空白とは何かを恐れて避けた証。そこに印を押せなかった理由は、自らの罪を認めることだったからだろう。人は、自分の嘘にだけは印を押したくないらしい。
訂正印のない真実——それは、もっとも大きな嘘だったのかもしれない。
事件の終わりと真の依頼人
最終的に、依頼人とされた人物たちは虚偽の申請で書類送検された。だが、裏で糸を引いていたのは別の人物だった。地元金融機関の元職員、そして隠された不動産ブローカー。
書類一枚から始まった事件は、意外な広がりを見せて終結した。
すべては名前の順番から始まっていた
気づけば、最初の書類の名前の順番が、戸籍とは逆だったことに気づいた。そこに、誰かが「演出」した跡があった。つまり最初から、この事件は仕組まれていた。
登記とは、真実を書くものだ。しかし、書かれていない空白にもまた、真実があるのだ。
静かに去る女と残された書類
ユイはその後、調査が終わった直後、どこかへ消えた。「ありがとうございました」とだけ言い、うつむいたまま、俺の前から姿を消した。机には、一枚の訂正済の申請書が残されていた。
今度は、訂正印がちゃんと押されていた。やれやれ、、、また奇妙な事件が終わった。