「先生」と呼ばれる違和感と現実
司法書士になってからというもの、やたらと「先生」と呼ばれることが増えた。正直なところ、今でも慣れない。「いやいや、そんな立派なもんじゃないんだけど…」と心の中で突っ込みを入れつつ、無難に笑ってごまかすのが常だ。特に、自分のような一人事務所の運営者が「先生」なんて呼ばれるのは、なんだか大げさに感じてしまう。とはいえ、相手は好意や敬意でそう呼んでくれているのだから、無下にもできない。葛藤の毎日は続く。
そもそも「先生」って誰のこと?
医師、弁護士、政治家、教師…。世の中には「先生」と呼ばれる職業があるが、果たして司法書士もそこに含まれるのだろうか。自分自身では、ただの町の相談屋くらいの気持ちでいるのに、肩書がつくとどうも周囲の見る目が変わってくる。ある日、地元の集まりで名刺を配ったとき、急に距離を取られた経験がある。「あ、先生なんですね!」と笑顔で言われた瞬間、逆にこっちは引いてしまった。そんなたいそうな人間じゃないのに。
法律系職業=先生という風潮
どうやら、日本社会では法律系の仕事に「先生」という敬称が自動的についてくるらしい。確かに、専門知識が必要で責任も重い。でも、だからといって無条件に「先生」と呼ばれるのは、ちょっと違う気がする。こちらは、汗かいて補正書作って、法務局に駆け込み、顧客対応に追われているただの事務屋だ。時には、パソコンの不調にまで対応させられることもある。そういう泥臭さが全く伝わらない「先生」という言葉に、空虚さすら覚える。
一人事務所の現実とのギャップ
実際、地方の一人事務所なんて華やかさのカケラもない。郵便の手配から掃除、スケジュール調整まで全部自分。そんな状態で「先生」と呼ばれると、申し訳なさと虚しさが同時に押し寄せてくる。あるとき、近所の小学生に「先生ってすごいね!」と無邪気に言われたが、返す言葉に詰まった。「いや、おじさんはただ書類を作ってるだけだよ」と言ったら、ぽかんとされた。それが現実だ。
「先生」呼びに慣れることの難しさ
年月が経てば慣れるかと思ったが、どうもそう簡単ではない。自分のように内向的で、人から注目されるのが苦手なタイプにとって、「先生」という呼称はむしろプレッシャーになる。ある種の演技を求められているような感覚があり、素の自分でいられない息苦しさがある。
照れくささと責任の重さ
特に困るのが、少し堅苦しい場で「先生」と紹介されるときだ。たとえば、町内会の法務相談のときなど、皆が一斉にこちらを見る。「先生、お願いします」と言われるたびに、「いや、自分はそんな立派じゃないです」と心の中で何度も否定している。でも、その場では断れない。期待を背負うのが「先生」なんだろう。そう思って無理やり振る舞うが、終わったあとどっと疲れる。
身内に言われるとむずがゆい
もっとも気まずいのは、身内や昔の友人に「先生」と言われるときだ。冗談半分ならまだいいが、本気で距離を取ってくると辛い。「お前も出世したなあ、先生!」なんて言われると、複雑な気持ちになる。中身は変わっていないのに、肩書だけで人間関係が変わってしまう。これはとても寂しいことだ。
初対面で「先生」呼びされる瞬間
ときには、初対面の人からも「先生」と呼ばれることがある。名刺を渡した瞬間に態度が変わる人もいる。こちらはなるべくフランクに接したいと思っているのに、妙にかしこまられてしまうのはもどかしい。呼び方ひとつで、こんなに空気が変わるものかと驚かされる。
名刺を渡したとたんに敬語モード
特に印象的だったのは、銀行との打ち合わせのとき。名刺を出す前はタメ口だった担当者が、「司法書士」と書かれた名刺を見た瞬間、「あっ、先生。失礼しました」と言い出した。急にかしこまった態度に、こっちが困惑する。「いやいや、さっきまで普通に話してたじゃん」と言いたかった。名刺一枚で人が変わるのを見ると、なんだか人間関係の薄っぺらさを感じてしまう。
コンビニで会った依頼人との温度差
もっと日常的な場面でも、戸惑うことがある。ある日、近所のコンビニでカップラーメンを買っていたら、依頼人にばったり会ってしまった。「あ、先生…!」と驚かれ、なんだか気まずい雰囲気に。こっちはただの腹ぺこのおじさんなのに、「先生」のイメージを壊してしまったようで申し訳なくなった。そういう偶然の出会いすら、どこか緊張を伴うのがつらい。
「先生」呼びが引き起こす微妙な関係性
「先生」と呼ばれることで、距離が縮まるどころか、かえって遠ざかることもある。特に、相談者との関係においては、壁ができてしまうのを感じることがある。こちらとしては、もっと気軽に話してもらいたいのに、敬語と「先生」でがっちり固められてしまうと、本音が聞き出しにくくなる。
上下関係が生まれてしまう恐怖
別に上から話したいわけではないし、偉そうにしたいわけでもない。ただ、対等に話したいだけなのに、「先生」という言葉が上下関係を強調してしまう。そのせいで、相談者が気を使いすぎてしまうことも多い。とくに初回相談では、なかなか本題に入らず、遠回しな話ばかりが続く。「もっとラフに話してくれていいのに」と思いながら、もどかしい気持ちになる。
同業者との距離感
同業者同士でも「先生」と呼び合う文化があるが、これもまた妙な距離感を生む要因になっている気がする。本当はもっとフランクに話したい。悩みも共有したい。でも、「先生」と呼ばれることで、相談する側として自分を下に置いてしまうような気がして、結果として孤立してしまう。
依頼者との壁
依頼者からの信頼を得るためには、ある程度の敬意も必要なのかもしれない。しかし、その敬意が壁になってしまうこともある。「先生」という言葉が、信頼と同時に距離も生んでいる。それを崩すのは、意外と難しい。気軽な言葉がけや笑顔だけでは届かないこともあるのだ。
年上の方からの「先生」に感じるプレッシャー
特に自分より年上の依頼者から「先生」と呼ばれると、プレッシャーは倍増する。人生経験も豊富な方に対して、知識ひとつで上に立ってしまうような気がしてしまう。ある高齢の依頼者に「若いのに立派だねぇ、先生」なんて言われた日には、うまく笑えなかった。そんなに立派じゃないし、日々必死にやってるだけだ。だけど、そう言われるたびに、期待に応えなきゃと自分を追い込んでしまう。
「先生」と呼ばれない選択肢もあるのか?
そもそも「先生」と呼ばれない働き方ができたら、どれほど気が楽だろうと考えることがある。とはいえ、現実にはそう簡単にいかない。人は肩書で相手を見る。だからこそ、こちらから歩み寄る努力が必要なのかもしれない。
名前で呼んでもらう努力
できるだけ、「稲垣さんでいいですよ」と自分から伝えるようにはしている。でも、ほとんどの人は気を使って「先生」と呼び続ける。「そんなに気を使わないで」と思っても、相手にとってはそのほうが安心らしい。名前で呼んでもらえる関係を築くには、時間と信頼が必要だと痛感する。
でも結局「先生」で呼ばれてしまう
努力はしてみても、結局多くの人は「先生」と呼ぶ。それが日本社会の慣習であり、文化なのだろう。だからといって、あきらめるのも悔しい。せめて、自分の中では「先生」と呼ばれても、等身大の自分でいられるように心がけている。それができるかどうかが、この仕事を続けていくうえでのバランスなのかもしれない。
肩書と人格のギャップに悩む日々
「先生」と呼ばれる肩書と、自分の中の情けない部分とのギャップに、日々悩まされる。やる気が出ない日もあるし、仕事で失敗することもある。でも、外から見たら「先生=完璧」みたいなイメージがある。それがしんどい。もっと人間らしく、不器用でも頑張ってる姿を見てほしいと思う。
「先生」呼びに慣れたふりの裏側
何年も仕事をしていると、呼ばれること自体には慣れてくる。でも、本当の意味で「慣れた」とは言えない。いつも心のどこかにモヤモヤを抱えながら、それでも笑って対応する。そんな日々が続いている。
言われ慣れても、心はついてこない
「先生」と言われても、もう驚きはしない。でも、素直に受け止められるかと言われると、それはまた別の話だ。自分の中では、ただの一司法書士であり、一人の人間。そういう思いがあるからこそ、呼ばれれば呼ばれるほど、自分に嘘をついているような気がしてしまう。
一人の人間として向き合ってほしい願い
最終的には、肩書ではなく人として向き合ってほしい。ただの「先生」じゃなく、悩んで迷って頑張ってる人間として見てほしい。そういう願いが、日々の業務の中で少しでも伝わればと思っている。