謎の来訪者と一通の遺言書
その日、夕暮れ時の事務所はいつもより静かだった。案件もようやくひと段落し、やれやれと背もたれに身体を預けた瞬間、ドアのベルが控えめに鳴った。入ってきたのは、白いシャツにロングスカートという姿の若い女性だった。
「司法書士の先生でしょうか?」と彼女は声を震わせながら言った。うんざりしつつも、無視できない雰囲気を感じた私は、席を立って対応することにした。
「愛を登記できますか」という奇妙な質問
彼女の第一声は、聞き間違いかと思った。「愛を登記できますか?」。サザエさんが波平に「それは無理よ」と言い切るような、そんな瞬間だった。私は苦笑いしながら答えた。「まあ、登記簿には“愛”の項目はないですね」
だが、彼女は本気だった。そして、鞄から一通の遺言書を取り出した。そこには、亡き恋人から彼女へ財産を遺贈する旨が記されていた。
相談内容は遺贈登記のはずだった
形式としては、よくある遺贈登記の案件だった。遺言書も自筆証書遺言としての要件を満たしており、家庭裁判所の検認済み。問題ないように見えた。
だが、サトウさんがじっと書面を見つめながら、ぽつりと呟いた。「これ、本当に本人が書いたんですかね?」
恋人の死と遺言書の存在
恋人は一ヶ月前、山道で車ごと谷に転落して亡くなった。事故として処理されたが、彼女は何か納得できないものを感じていたという。遺言書が届いたのは、それからちょうど一週間後だった。
まるで誰かが「タイミングを計ったような」動きだったという彼女の言葉に、私もわずかな違和感を覚えた。
登記簿と矛盾する所有関係
提出された遺言書に基づき、土地の登記簿を確認したところ、問題が発覚した。すでにその土地は、遺言書に記された日付よりも前に、第三者へ所有権移転されていたのだ。
サザエさんで例えるなら、タラちゃんのランドセルを「来年の分」と言ってイクラちゃんに勝手に渡してしまったようなものである。理屈が通らない。
名義は既に別人へ移転済み
名義人は「株式会社ミカゲ不動産」という聞き慣れない会社だった。所有権移転の登記は死亡の一週間前。しかも、売買と記載されている。
しかし、売買契約書の写しを取り寄せてみると、不自然な点がいくつもあった。金額が不自然に低く、印紙も貼られていない。そして、決済日にあたる日付に、不動産の所有者はすでに入院していたはずだった。
亡くなった恋人の秘密
彼女が知らなかったのは、恋人がかつて大手不動産会社の営業マンだったことだ。やり手だったが、数年前に一件の「持ち逃げ騒動」で業界から姿を消したらしい。
まさかと思い、過去の裁判記録を調べてみると、彼の名前が確かに存在した。だが不思議なのは、その後不起訴となっていたことだ。
実は過去にも偽装登記の疑いが
過去の記録から、彼には既に何度か「名義貸し」や「仮装売買」に関与した疑いがあったことが浮かび上がった。登記簿は彼の足跡をすべて記録してはいなかった。
それでも私たち司法書士の目には、そこに「おかしな痕跡」がはっきりと見える。そういう意味では、登記簿は沈黙の証人である。
関与していた司法書士の名前に見覚えがある
ミカゲ不動産との所有権移転に関与していた司法書士の名前を見たとき、私は思わず書類を落とした。研修会で何度か顔を合わせた「タカノ司法書士」だった。
彼は常に優秀で冷静だったが、噂では金に困っているらしいという話も聞いたことがある。登記業界もきれいごとでは済まないのだ。
サトウさんの調査が核心を突く
私は出張と称して動かず、代わりにサトウさんがネットワークを使って調査してくれた。彼女はわずか半日で、ミカゲ不動産の代表者とタカノ司法書士の関係を突き止めた。
なんと代表者は、彼の義理の弟だった。法人登記簿から追いかけ、住所、過去の関連会社、すべて洗い出していた。塩対応だけど、仕事はできすぎるくらいできるのだ。
恋人の死は事故か、それとも計画的なものか
結論から言うと、直接的な証拠はなかった。だが、車の整備記録に不審な点があり、彼が事故前日に整備工場に寄っていたことが防犯カメラから確認された。
その整備工場は、ミカゲ不動産の関連会社の一つだった。偶然にしては、繋がりすぎていた。
愛と金が交差する登記の世界
人は愛を信じると、所有権なんてどうでもよくなる。けれど、紙の世界ではそうはいかない。登記簿に載らない感情は、法的保護を受けられない。
「やれやれ、、、愛も登記できればね」と私は独りごちた。サトウさんは「無理です」と即答した。ですよね。
一枚の申請書に隠された真実
最終的に、登記は不受理となった。なぜなら、その遺言書に添付された印鑑証明が偽造されていたからだ。提出直前、サトウさんが気づき、念のため照会をかけた結果だった。
もしあのまま進めていたら、私の事務所が関与登記になっていた可能性すらある。危ない橋を渡らずに済んだのは、彼女のおかげだった。
そして、再び静けさが戻る事務所
全てが終わったあと、彼女は深々と頭を下げて帰っていった。愛する人の本性を知っても、それでも「遺志を信じたかった」と涙ながらに語った。
私たちにできたのは、登記の不備を指摘することだけだった。でも、それが法の世界だ。そして、また事務所に静けさが戻る。書類の山は減らないけど。