朝の訪問者
事務所に持ち込まれた不可解な依頼
その朝、雨は降っていなかったが、どこかじめじめとした空気が事務所を包んでいた。男は開口一番、「隣の家の名義が変わってる気がするんです」と言った。登記簿を見ると、確かに最近名義が移っていたが、依頼人が語る名前とは違っていた。
「前に住んでたのはミズノさんって言うおじいさんだったんですよ。でも今の登記には“ミズキ”って書いてあるんです」その違和感に、ぼくの司法書士センサーがちょっとだけ反応した。
登記簿に残された違和感
確かに登記簿にはミズキヨシヒコという名が記されていた。しかし依頼人が言うには、ずっと“ミズノ”と名乗っていたという。通名か、あるいは本名を隠していたのか。ぼんやりした違和感が、やがて一つの確信に変わっていく。
「名前の変更、あるいは二重生活……いや、まさかとは思うけどな」とぼくは口にした。サトウさんは黙ってメモを取りながら、すでに次の手を読んでいたようだった。
亡き隣人の名義変更
被相続人の名前が違う?
固定資産税の通知が来たことが、この一件の発端だった。元々の名義人は去年亡くなっていたが、登記簿の名義変更がつい最近行われている。その名義人の名前が“違う”というのだ。
法務局で取得した登記事項証明書を眺めながら、ぼくは「これは遺産分割じゃない」と確信した。何かが隠されている。そう思った時、いつの間にか事務所に戻ってきたサトウさんが冷たく一言、「除籍謄本、取ってきました」と書類を差し出してきた。
近隣住民の証言が語る違和感
サトウさんが近所の住人に聞き込みをしてきたらしい。さすがは元探偵アニメのファンだけのことはある。まるで毛利小五郎の助手のような嗅覚だ。「みんな“ミズノさん”って呼んでたみたいです。ただ、本当の名前は誰も知らなかったそうです」
曖昧な情報がさらに謎を深めていく。やれやれ、、、今日も一筋縄ではいかなそうだ。
サトウさんの冷静な分析
出生の秘密と通名の可能性
「ミズノと名乗っていたのは、おそらく在日の方だった可能性もありますね。あるいは、旧姓で生活していたか」サトウさんは冷静に分析していた。除籍謄本を精査すると、昭和30年代に“ミズキ”から“ミズノ”に一度改名している記録があった。
つまり、“ミズキ”は旧姓で、“ミズノ”は生活上使っていた名前か、逆か。いずれにしても、どちらも同一人物である可能性が高い。
除籍謄本が語る二重生活の痕跡
「これ、住所履歴見てください。20年前からこの町に住んでいる記録があるのに、同じ時期に東京でも住民票があったみたいです」サトウさんの指摘にぼくは目を見開いた。これは、二重生活の証拠だ。
「家族がいたのかもしれないな。もう一つの人生が……」
司法書士シンドウの動き出し
元野球部の記憶が導いた地名の謎
除籍謄本に記された住所の一つに、どこかで聞いたことのある地名があった。「あれ、ここって……」ぼくはかつて野球部の遠征で行った町の名前を思い出した。偶然か、運命か。
思い出のグラウンドの隣に、その住所は確かに存在した。ぼくの中で点と点が、少しずつ線になり始めていた。
やれやれ、、、市役所での手続きは今日も行列
市役所で住民票を確認しようとしたが、長蛇の列に出鼻をくじかれる。「まるでコミケの開場前かよ……」と心で毒づきながら、番号札を握りしめる。司法書士の仕事は、地味で地道で忍耐の連続なのだ。
ようやく手にした住民票には、確かに“ミズノ”と“ミズキ”両方の名前が確認できた。
戸籍の交差点
20年前の改名と住民票の謎
その後の調査で、どうやら“ミズキ”は本名、“ミズノ”は母方の姓で、長年そちらで生活していたことが判明した。さらに、20年前に法的な改名申請をしていた記録もあった。
「この人は過去を切り離したかったのかもしれないな」ぼくはつぶやいた。過去を消すには、名前から変えるしかなかったのだろうか。
失踪宣告の影と保険金のにおい
さらに調べると、東京の家族の方では彼に失踪宣告を出していたらしい。保険金の受け取り記録もある。つまり、同一人物でありながら、二つの人生を生き、片方では“死亡”していたのだ。
これは……もう、ミステリーというよりサスペンスだ。
真相に近づく手紙
封筒に残された旧字体のヒント
遺品の中に、古い手紙があった。旧字体で書かれた宛名に“水木”とあった。筆跡から見ても本人が書いたものに間違いなさそうだった。
彼はすべてを知った上で、静かに隣人としての人生を選んだのかもしれない。まるで、サザエさんの世界では描かれない、静かな家族の断絶だ。
サトウさん、決定打を放つ
土地の使用履歴から割り出された滞在期間
「登記簿に土地使用開始の記録があります。その日付、失踪宣告された翌日なんですよ」サトウさんの一言で、すべてがつながった。彼は死んだことにして、ここで第二の人生を生きたのだ。
自らの死を演出した男。その理由は誰にもわからない。けれど、その意志は記録に、そして土地に残されていた。
Googleマップと郵便転送履歴
最後に、彼の旧住所からの郵便転送記録が見つかった。Googleマップで見たその住所は、すでに更地になっていた。「彼は過去も、物理的に消したかったのかもしれませんね」
サトウさんの言葉に、ぼくはうなずいた。
依頼人の動揺
知らなかった過去と向き合う時
「本当は誰だったんですか……あの人は」依頼人は震える声で聞いた。ぼくは、手にした書類をゆっくりと閉じて、「隣人だったことだけは、確かですね」と答えた。
人は皆、多面体だ。知っている顔が、全てではない。
本当に隣に住んでいたのは誰だったのか
亡くなった“ミズノ”こと“ミズキ”氏は、戸籍上も現実の姿も違う人間だった。でも、彼がしてきた日々の会話や、ゴミ出し、あいさつ……それは紛れもなく本物だった。
「名前が変わっても、関係は本物だったんじゃないですか?」と、ぼくは付け加えた。
真実の登記
正しい名義に戻るまでの道のり
名義変更には手間がかかったが、最終的に正しい情報で登記簿は更新された。彼の“本当の名前”が、静かに記録された瞬間だった。
嘘をついていたのではない。ただ、過去をそっと置いていっただけなのだろう。
静かに更新される法務局の記録
登記簿は静かに、しかし確実に真実を刻んでいく。誰がどこで生き、そして死んだか。その証拠が、ぼくらの仕事の中心にある。
そして今回もまた、一つの真実がそこに追加された。
事件の終わりと一杯の缶コーヒー
サトウさんの「おつかれさまです」の破壊力
事務所に戻ると、サトウさんが缶コーヒーを差し出してくれた。「おつかれさまです」その一言が、妙に染みた。
「お、おう……」としか返せなかった自分が、ちょっと情けない。
やれやれ、、、今日も結末は予想外だった
人は何を背負い、何を捨て、どこにたどり着くのだろう。司法書士という仕事は、それを見届ける役割でもある。やれやれ、、、結局、誰かの人生をちょっとだけ覗き見る日々なのかもしれない。
今日もまた一つ、登記簿が語った過去があった。