序章 静寂を破る来訪者
昼下がりの事務所にチャイムが鳴り響いた。ゆっくりと扉を開けると、薄汚れたジャケットに身を包んだ中年の男が立っていた。目元には疲れと焦燥が浮かび、握りしめた封筒がその緊張を物語っていた。
「相続のことで、相談がありまして……」男は名乗りもせずに言った。
不意に差し出された登記簿の写し。それが、この小さな町でひとつの物語の扉を開くことになろうとは、その時の私はまだ知らなかった。
古びた土地建物の謎
持ち込まれた書類を確認すると、対象の土地は郊外の古びた平屋。築年数は不明。だが登記簿には奇妙な点があった。
「これ、名義が変わってない……平成元年のままですね」サトウさんが無表情で指摘する。
どうやら、相続はされたが登記はされていなかったようだ。いや、されていなかったのか、それとも意図的に放置されていたのか――。
登記簿に残された違和感
名義人は既に20年前に死亡していた。それを示す戸籍もあった。なのに、登記はずっとそのまま。
「これは、、、なんか変ですね」私は思わず声を出した。「こんな古い相続登記が今さらって、普通じゃないですよ」
まるで、過去の時間をそのまま凍結させているような奇妙な印象。そこには人為的な意思が隠れている気がしてならなかった。
空き家に住む男
翌日、現地確認に向かうと、そこには「空き家」としては不自然なほど整った庭が広がっていた。
インターホンを押すと、応じたのは来所したあの男だった。「住んでるんですか?」と尋ねると、男はしばし沈黙してから頷いた。
「伯父が亡くなってから……誰も来ないので、住んでも問題ないかと思って」その言葉に、サザエさんでいえば波平がこっそり隣家に引っ越していたような、妙な違和感を覚えた。
相続登記に潜む罠
相談の主旨は「正式に相続したい」というものだった。しかし提出された戸籍は、相続人が一人しか記されていない簡易なものだった。
「全部の戸籍を取っていませんよね?」とサトウさんが問い詰めると、男は目をそらした。
これは完全に、他の相続人の存在を意図的に隠しているパターンだった。つまり、虚偽の申請をするつもりだったのだ。
昔の地番に見えた綻び
私は法務局で旧地番を調査した。すると、登記上の土地は一度分筆されており、建物がある現在地は当初の相続財産には含まれていなかった。
つまり男が住んでいる建物は、実は別人の名義になっていた可能性がある。
「やれやれ、、、また面倒なやつに当たったな」と、つい口からこぼれる。
かつての居住者の正体
調査を進めるうちに、真の所有者は男の伯父ではなく、その兄だったことが判明する。伯父は単に住んでいただけだった。
つまり、土地も建物も男には相続権がない。本人はそれを知っていたのか――あるいは知らないふりをしていたのか。
ただ、今さらこの事実を突きつけるのも気が引ける。だが、それが私たち司法書士の仕事だ。
法務局が語るもう一つの物語
法務局の職員がこっそり教えてくれた。実は過去にも同じ住所で申請ミスがあり、誰も訂正しないまま年月だけが流れていたという。
「つまり放置された嘘が、いま現実をねじ曲げてるってことですか?」私が言うと、職員は肩をすくめた。
法とはなんとも、過去の歪みに対して律儀で、しかも冷酷だ。
サトウさんの冷静な観察
事務所に戻ると、サトウさんが既に補正案を作成していた。私は何も言っていないのに、彼女はすべて見抜いていたようだ。
「戸籍だけじゃなくて、評価証明書も変ですよ。土地の評価が極端に低すぎます」
そう、それが最後の手がかりになるとは、思いもしなかった。
手書きの申請書に潜む意図
男が持参した手書きの申請書には、ある工夫があった。評価額を低く見せるために、古い地番の評価をあえて使っていたのだ。
つまり、登録免許税を不当に安くしようとしていたのである。完全な意図的偽装だった。
「これは、、、やるなら税理士にでも相談した方がマシでしたね」と、私はつぶやいた。
真相は一枚の評価証明書に
サトウさんが取得した最新の評価証明書では、土地の地番が新しいものになっており、評価額も3倍近くに跳ね上がっていた。
この差額が動機だった。住み続けたい男にとって、少しでも負担を減らすために虚偽申告を思いついたのだ。
だが、それがバレれば逆に大きな責任を背負うことになる。まさに墓穴を掘るとはこのことだ。
追い詰められた偽装相続人
私たちは丁寧に、しかし毅然と説明した。正しい手続きを踏まなければ、後で問題が大きくなると。
男は観念したように肩を落とし、「全部話します」と言った。
彼の目には疲労だけでなく、どこか安堵のような色も浮かんでいた。正直であることは、時に人を救うのかもしれない。
登記簿が示す最後の場所
結局、その建物は競売にかけられ、男は別の町へと去っていった。新しい所有者は、都会から移住してきた若い夫婦だった。
登記簿の記録は塗り替えられ、町の地図の一部が新たに更新された。だがそこには、確かに一つの終の棲家の記憶が刻まれている。
過去を整理し、未来へ繋ぐ。それが、司法書士の役目なのだと改めて感じた。
家と人を結ぶ名前の記録
登記簿は冷たい。だが、その裏には人の営みがある。家と人を結ぶのは、名前の記録であり、その重さだ。
サザエさんの家に誰が住んでいようと、波平の名前が消されれば、その家はもう違う家になるのだ。
登記とは、そんな人間臭さを記録する奇妙な仕組みだと、私は思う。
静かに閉じる終の棲家の扉
今日も事務所には、新たな相談者がやってくる。静かに、しかし確かに問題はやってくる。
私はいつものように椅子に座り、書類に目を通しながら、またつぶやいた。
「やれやれ、、、終の棲家にしては、やけに騒がしいじゃないか」