届かなかった婚姻届

届かなかった婚姻届

朝一番の来訪者

見慣れない女性と書類の束

その朝、まだコーヒーも飲んでいないうちに、インターホンが鳴った。扉を開けると、ベージュのスーツに身を包んだ女性が立っていた。手には書類の束と、妙に分厚い封筒が握られていた。

「婚姻届のことなんですが」と彼女は切り出した。眠気が一気に吹き飛ぶ。普通、役所に持っていく書類を、なぜ司法書士の私に持ってくるのか。それは彼女が語る理由によってすぐに明らかになる。

「夫が亡くなったんです。けれど、婚姻届を提出していなくて…」

封筒の中の婚姻届

提出予定日を過ぎた日付の謎

封筒を開けると、確かに婚姻届が入っていた。署名も捺印もされている。証人欄まで埋まっていたが、日付だけが未記入だった。いや、正確には記入されていたが、修正液で消されていた。

「彼が亡くなったのは三日前です。でも、届出は今朝出すつもりだったんです」彼女はそう言いながら、涙をこらえていた。だが、何かが引っかかる。なぜ修正液を?

私はそっと婚姻届を光にかざした。かすかに「令和七年八月一日」の文字が浮かんで見えた。

依頼者は既に死亡

婚姻届に記載された不在の人物

死亡届と一緒に提出された彼の戸籍には、まだ未婚と記載されていた。当然だ。婚姻届が提出されていない限り、法律上は独身のままだ。

「実は、彼の家族が反対していたんです。だから、私たちは秘密にしていた。籍を入れる日をずらして、家族が落ち着いた頃に出そうと…」

だが、婚姻届はそのまま遺された。そして彼女は、それを「今さら」出したいというのだ。提出しても法的効力はない。死亡した時点で未婚なら、それがすべて。

死亡届と婚姻届のはざま

書類上で交錯するふたりの人生

「未提出の婚姻届は法的に意味がありません」と、私は少し慎重に言葉を選んだ。「でも、それを提出しようとした意志があるなら、もしかすると…」

「何か方法があるんですか?」と彼女が身を乗り出す。司法書士は魔法使いではない。だが、戸籍や書類の世界には、時に“記録”という名の痕跡が残る。

私は役所での証明や戸籍附票の可能性を考え始めていた。誰が、いつ、どこで、どんな意思を示したか。それが重要だった。

サトウさんの鋭い一言

「これ、誰が出したんでしょうね」

事務所に戻ると、サトウさんが封筒の宛名を見て眉をひそめた。「これ、本人の筆跡じゃないですね」彼女の観察眼は鋭い。こういうとき、私はたいてい見落としている。

「でも、中身の署名は本人のものだ」と私は言う。「たぶん、封筒だけ誰かが差し替えたんだろう」

彼女はパソコンを叩いて、彼の遺言書の存在を調べていた。「これ、もしかして誰かが…“提出しようとした”んじゃなくて、“提出したように見せた”んじゃ?」

やれやれ司法書士の出番らしい

死亡時点と提出タイミングのズレ

やれやれ、、、また厄介な話になってきた。婚姻届が出されるべき日には、彼はすでに亡くなっていた。ならば、それは誰かが意図的に持ち込んだと考えるべきだ。

「念のため、ポスト投函記録を確認しましょう」と私は提案した。区役所前の防犯カメラは、まだ保存期間内だ。

そして映像に映っていたのは、彼の妹だった。

法務局の記録に残された足跡

証人欄に記された意外な人物

証人欄には彼の会社の同僚と、近所の八百屋の名前があった。だが、同僚に確認すると、「そんなものに署名した覚えはない」と言う。

八百屋の店主も、「苗字は書いたけど、詳しい書類の中身までは知らなかった」と証言。つまり、何かにサインを求められて、それが婚姻届だとは認識していなかった。

この時点で、私は確信した。これは偽造ではなく、巧妙な誘導だ。妹が“自分の兄の財産”を守るために動いていた。

まるでサザエさんのような勘違い

婚姻届の証人がカツオとタラオ

ちなみに、最初に見せられた提出予定の別の婚姻届には、証人欄が「カツオ」と「タラオ」になっていた。思わず吹き出してしまった。

「冗談で書いたのか、本気で出すつもりだったのか…」と呟くと、サトウさんが冷たく言った。「そういうとこですよ、モテない理由」

サザエさんの家なら、家族のことはなんでも話し合うんだろう。でも現実は、書類で感情をやりとりする時代になってしまったのかもしれない。

うっかりミスか計画的犯行か

元恋人の登場と偽造の可能性

妹に話を聞くと、「兄のためにやった」と涙ながらに訴えた。「籍を入れたかった気持ちは彼にもあった。彼女も同じ気持ちだった。だから、私が…」

だが、それは第三者が決めることではない。本人の意思がなければ、すべては無効だ。

「じゃあこれは、偽造じゃないんですか?」と彼女は言った。「いいえ、偽装です」と私は返す。まるでルパン三世の変装劇を見ている気分だった。

戸籍謄本が語る真実

存在しない婚姻と存在した動機

結果として、戸籍は何も変わらない。ただ、そこにあったはずの“気持ち”だけが、書類の片隅に残されていた。

サトウさんが淡々と言う。「どれだけ想っていても、法は情に左右されません」

それでも、私はほんの少しだけ、書類に書かれた“未遂の婚姻”に目を細めた。まるで“あと一歩”だった人の未練のように。

司法書士が紐解く書類の嘘

本当に出したかったのは誰か

書類は語らない。ただ、書かれた文字と日付が、何を意図していたかを物語る。私は婚姻届を一枚、静かにファイルに戻した。

「提出はされなかった。でも、気持ちは届いたんでしょうかね」

サトウさんは言った。「司法書士はそこまで読み取るんですね」いや、そうじゃない。ただ俺は、書類の裏側を読む癖があるだけだ。

サトウさんの冷たい視線

「やっぱりまた巻き込まれましたね」

「やれやれ、、、」私はソファに崩れ落ちた。「なんでうちの事務所ばかりこういう話が来るんだ?」

「多分、顔に書いてあるんですよ。“巻き込まれ体質”って」サトウさんの言葉は、いつもながらに痛烈だ。

でもたぶん、それがこの仕事の醍醐味でもある。人の人生の“記録”に触れること。それが司法書士の本質かもしれない。

最後に届いた本当の思い

封筒の裏に隠された遺言

後日、封筒の裏に小さなメモが貼られているのを発見した。そこには、こう書かれていた。

「本当はもっと早く出したかった。ごめん」

その筆跡は、死亡日と同じ日付。彼は最後の力を振り絞って、何かを伝えようとしていたのかもしれない。

結末といつもの一言

「やれやれ、、、これが俺の仕事かよ」

人生は書類で完結しない。でも、書類で始まることもある。婚姻、相続、そして別れも。

私はカバンにその書類を戻し、窓の外を見た。夏の空は、何も知らない顔で広がっていた。

「やれやれ、、、これが俺の仕事かよ」

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓