立ち止まった瞬間に押し寄せるもの
日々、依頼に追われ、登記に追われ、スケジュールに追われていると、気づいたら週末になっている。それでも、ふと手を止めたとき、心にポッカリと穴が開いたような感覚に襲われることがある。仕事の合間、コンビニで買ったコーヒーを飲みながら空を見上げる。誰とも会話せず、誰とも笑い合わず、ただ業務だけが淡々と進んでいく日々に、「これでいいのか?」と問いかけるような感情が胸を締めつけてくる。
仕事に追われて見失う自分の存在
司法書士という職業は、人の人生の節目に関わる仕事だ。それはとても責任があり、やりがいもある。ただ、それゆえに「自分」をどこかに置き去りにしてしまう。朝から晩まで、書類と向き合い、依頼者に気を配り、法務局の締切に追われるうちに、鏡に映る自分が「誰なのか」分からなくなる瞬間がある。そんなとき、決まって思い出すのは、昔の友人たちの笑顔だったり、恋愛の未練だったりする。
忙しさが紛らわせていた「虚しさ」
仕事があるうちは良い。忙しくしていれば、余計なことを考えなくて済む。しかし、ほんの少しでもスケジュールが空くと、押し寄せてくるのは「虚しさ」だ。自分はただ、目の前の案件を片付けているだけなのではないか?成果や感謝の言葉も一瞬。次の案件にすぐに追われる。この繰り返しのなかで、自分の存在意義を見失いそうになる。
時間は過ぎているのに、進んでいない感覚
何年も事務所を運営してきた。でも、「自分はどこへ向かっているのか」と問われると、はっきりと答えられない。事業は続いているし、依頼もある。けれど、ふとした瞬間に感じるのは、「時間だけが過ぎている」という感覚。ゴールがあるわけでもない。昇進も、表彰もない。日々の業務をこなすだけの自分に、進んでいるという実感がない。
電話が鳴らない静けさが刺さる
「今日は静かでいいな」——そんな日もある。でも、あまりに静かすぎると、不安が顔を出す。電話も来客もない日は、まるで世界から取り残されたような気持ちになる。事務員も黙々と作業をしていて、事務所には紙の擦れる音しか響かない。そんな日こそ、「自分はちゃんと存在してるのか」と自問してしまう。
急ぎの案件がない日の不安
普段は「急ぎの案件ばかりで大変だ」と愚痴っているくせに、急ぎがないと、それはそれで落ち着かない。焦る必要のないはずの一日が、逆にそわそわしてしまう。まるで、役割を与えられていない子どもみたいな気持ち。仕事が自分の価値のすべてのように思えてしまっているのかもしれない。
「必要とされていないのでは」という妄想
「今日はたまたま静かなだけ」と頭ではわかっていても、心が勝手に悪い妄想を始める。「あの依頼者、別の事務所に行ったんじゃないか」とか、「もう役に立たなくなったのかも」とか。必要とされないことへの恐怖が、静寂の中で膨らんでいく。誰かに「お願いしたい」と言われたい。それだけで安心できるのに。
孤独はふいにやってくる
それは決してドラマのような劇的な場面ではなく、ほんの些細な瞬間にやってくる。帰り道、夕暮れの色がにじんだ街並みに、自分だけが透明人間になったような気持ちになることがある。誰かとすれ違っても、視線は交わらない。日々の疲れが溜まっていくほどに、心の距離感も広がっていくような感覚に陥る。
帰宅後、灯りのない部屋に戻るとき
玄関のドアを開けても、誰も出迎えてくれない。電気をつけると、そこにあるのは散らかった書類と、洗っていないマグカップ。人の気配がない家に戻るたびに、「今日も誰ともちゃんと話していないな」と思う。電話では丁寧に対応していても、それは仕事上の言葉であって、自分の本音を話したわけではない。
会話がない1日の終わり
一日が終わるころ、テレビの音だけが部屋に響いている。誰かの笑い声が流れていても、自分はその輪の外にいる。SNSを開いても、リアルなやりとりではないし、むしろ余計に孤独を感じるときもある。今日は誰とも心を通わせる会話をしていない。それが一日どころか、一週間続くと、さすがに心がきしむ。
たった一言で癒やされたかった夜
「お疲れさま」——その一言が、どれほど心にしみるかを知っている。誰かにそれを言ってもらえるだけで、「自分は今日を乗り越えた」と思える。けれど、独りで暮らす生活では、その一言すら届かない。スーパーのレジで交わす「ありがとうございました」だけが、人とのつながりを感じる唯一の瞬間だったりする。
祝日・週末がつらく感じる理由
多くの人が「休みが待ち遠しい」と言う中、自分はなぜか週末が怖い。予定もなく、出かける相手もいない。ただ時間だけが流れていく。誰にも頼まれず、誰にも必要とされない空白の一日が、逆に疲れを増幅させる。そんな休日が続くと、仕事に逃げたくなる。
休んでいるはずなのに休まらない
家にいても、心がそわそわする。やることはあるのに、手がつかない。仕事で忙しい平日の方が、むしろ気持ちが落ち着いているのかもしれない。自分の存在価値を、結局「仕事」にしか見いだせていないのだろう。そんな現実に、またため息をつく。
誰かと過ごす「当たり前」が遠い世界
友人や同僚が、家族と旅行に行った話をしているとき、「自分には縁のない話だ」と内心つぶやいている。結婚もしていないし、恋愛もずっと遠ざかっている。誰かと過ごす休日は、テレビの中の世界のように思える。何がどうずれてしまったのか、もう思い出せない。
それでも、この道を選んだ理由
孤独を感じることが多くても、この仕事を辞めたいとは思わない。それは、やっぱり「誰かの役に立っている」という実感があるからだ。自分にできることで、誰かの不安を取り除ける瞬間がある。その積み重ねが、静かに自分を支えてくれている。
誰かの困りごとを解決する喜び
登記手続きに不安を感じていた依頼者が、「本当に助かりました」と頭を下げてくれたことがある。あの瞬間は、どんな孤独も吹き飛ばしてくれる力がある。自分にしかできない役割があるのだと、強く感じた。その瞬間のために、この仕事を続けている。
感謝の言葉に救われた日
ある高齢の依頼者から、手書きの手紙をもらったことがある。「あなたのおかげで安心できました」と書かれていた。あの手紙は今も机の引き出しに大切にしまってある。何度も読み返しては、「まだ頑張っていいんだ」と思い直す。
孤独と共に生きる術
孤独は消えない。でも、向き合い方は変えられる。無理に埋めようとせず、共に生きることを選ぶ。そのほうが、心が少し楽になる。完璧な生き方はできないけど、自分なりに折り合いをつけながら進んでいくのも、また一つの選択肢だ。
「一人でいること」と「一人ぼっち」は違う
独り身でも、孤独とは限らない。一人で過ごす時間を楽しめるようになってから、少しだけ気持ちが軽くなった。読書をしたり、散歩をしたり。誰かといなくても、自分の時間を自分で満たすことはできる。そこに気づいたとき、心の中の空白も少しだけ埋まった気がした。
小さな習慣が自分を支えてくれる
毎朝コーヒーを淹れて、ラジオを聴く。それだけでも、生活にリズムが生まれる。誰かのためではなく、自分のための時間。そんな小さな習慣が、自分という存在を確かめる道しるべになっている。孤独に飲まれそうなときほど、ルーティンのありがたみを実感する。