帰ってきても「おかえり」がない

帰ってきても「おかえり」がない

帰宅しても誰もいない。それが日常になるまで

司法書士として独立してから十数年、仕事が終わって帰宅するたび、部屋は静まり返っています。「ただいま」と口に出しても返ってくるのは冷たい空気だけ。最初は違和感だったこの無音の空間も、今ではすっかり馴染んでしまいました。慣れるというのは恐ろしいもので、人はどんな環境でも順応してしまうものなのかもしれません。けれども、それは慣れたのではなく、感覚を鈍らせているだけなのかもしれない。そう思うときがあります。

「ただいま」に返事がない部屋の空気

帰ってきて電気をつける。玄関の鍵を閉める音が響く。そして「ただいま」と呟く。けれど、その言葉に答える声はありません。テレビもついていない、誰の気配もしない部屋の中で、自分の声だけが虚しく残るあの瞬間。まるで誰かに自分の存在を確認してほしくて声を出しているような気がします。音のない部屋は、今日一日の疲れよりもずっと重たい孤独を感じさせます。

音のない家に慣れることはできるのか

最初の頃は帰宅後すぐにテレビをつけていました。ニュースでもバラエティでも、とにかく音が欲しかったんです。でも、そのうち気づくんですよね。音があると余計に寂しくなるって。人の笑い声や会話のテンポが、自分とのギャップを突きつけてくる。最近はテレビもラジオもつけなくなりました。静かな空間が、今では自分の居場所になってしまった。慣れたのではなく、諦めたのかもしれません。

仕事が終わっても心が休まらない

登記の締切に追われたり、お客さんとのやり取りで神経をすり減らす日々。ようやく業務が終わって、ふと気が抜けた瞬間に感じるのは「誰にも気を使わなくていいはずなのに、なぜか疲れが取れない」という不思議な感覚です。きっと、誰かと共有する時間がないことが、心の休息になっていないのだと思います。ひとりでいると気楽なはずなのに、それは本当の意味での「休息」ではないんですよね。

孤独を感じる瞬間は、決まって夜だ

朝は忙しく準備して、日中は業務に追われているから孤独を感じる暇もありません。でも夜になると、ふと心の隙間が大きくなる瞬間があります。夕飯をひとりで食べながら、窓の外に見える明かりをぼんやり眺めて、「あの窓の向こうには家族がいるんだろうな」と想像する。それだけで、なんとも言えない寂しさがこみ上げてくるんです。寂しさに慣れるなんて、やっぱりできません。

テレビの音がやけに大きく感じる夜

たまたま見たテレビドラマのセリフが、やけに心に刺さる夜があります。家族団らんのシーンや、誰かが「おかえり」と言っているシーンに、胸が締めつけられることも。そんなとき、思わずテレビの音量を下げてしまう自分がいます。音が大きすぎるわけじゃない。ただ、心が敏感になっているだけ。夜は、いろんな感情が浮かび上がる時間です。

夕飯をコンビニで済ませる理由

スーパーで食材を買って料理をする元気もないし、外食に行くのも面倒くさい。コンビニで弁当と缶ビールを買って帰る、それがほぼ毎日のルーティンです。誰かと一緒に食べるなら、料理を作る気にもなるのかもしれない。でも一人だと、作っても味がしないんです。料理をする気力が湧かないのは、単なる疲れじゃなくて、誰かのために動く理由がないからなのかもしれません。

仕事はある。だけど、心が満たされない

独立してから有難いことに仕事は絶えません。むしろ忙しいくらいです。けれども、それで心が満たされているかというと、そうではありません。書類が山積みになっているときに限って、ふと「何のためにこんなに頑張ってるんだろう」と思うことがあります。仕事は生きるための手段。でも、それだけで人は満たされない。そんな現実を痛感することが増えてきました。

お客さんの「ありがとう」に救われる

先日、相続手続きで大変だった依頼者の方から、「あなたに頼んで本当によかった」と言われました。たったそれだけの言葉なのに、不意に涙が出そうになったんです。「誰かに必要とされてるんだ」と感じた瞬間、空っぽだった心が少しだけあたたかくなりました。感謝されることって、こんなにも大きな力になるんですね。

感謝の言葉に反応しすぎる自分

依頼者からの「助かりました」という言葉に、以前よりも強く反応してしまう自分に気づいています。昔はもっと淡々と受け止めていたのに、今ではそれが心の支えになってしまっている。これは良いことなのか、弱っている証拠なのか。感謝の言葉が心に沁みるのは、それだけ普段から満たされていないからかもしれません。

ふとした一言で泣きそうになる日

書類のやり取りで郵便局に行ったとき、窓口の女性職員が「お疲れさまです」と笑顔で声をかけてくれました。その一言に、思わず胸が熱くなったんです。こんな些細なことでも、心がぐらつくなんて。疲れてるんでしょうね。優しさに触れると、逆にそれが自分の弱さを突きつけてくる気がします。

事務所に戻っても、会話は最小限

事務員さんとは業務上の会話はありますが、私生活の話や雑談をすることはほとんどありません。こちらから話しかけるのも億劫だし、向こうもきっと距離を保ちたいのだろうと感じています。信頼関係はある。でも、それ以上にはならない。孤独は職場でも家庭でも同じように存在しています。

事務員さんとの距離感に悩む

近づきすぎても、離れすぎてもダメ。事務員さんとの関係はまるで綱渡りのようです。頼りにしている反面、あまりプライベートには踏み込みたくないし、踏み込まれたくもない。だから会話も自然と業務連絡だけになっていくんです。でも、たまに誰かと笑って話せたらいいのにな、と内心では思っている自分もいます。

人間関係を築く余裕がない現実

朝から晩まで案件に追われ、電話とメールに振り回される日々。人間関係を築くには「余白」が必要だとよく言われますが、今の私にはその余白がありません。気がつけば、人との距離を測る感覚さえ鈍ってきたように感じます。仕事があることは感謝すべきだけど、それだけで生きていけるわけではないという現実が、じわじわと心を蝕んでいくのです。

「おかえり」がない人生に、意味を見つけたくて

この生活が続いていく先に、何が待っているのか。正直、わかりません。けれど、少しでも意味を見出したいと思っています。誰かに「おかえり」と言われなくても、自分で自分を肯定できるように。そんな人生を目指して、今日も仕事に向かいます。小さな希望を胸に、静かな部屋に帰る道のりは、案外悪くないかもしれません。

誰かに必要とされたい。それだけなのかもしれない

結局のところ、私が望んでいるのは「誰かに必要とされたい」という気持ちなのかもしれません。褒められたいわけでも、成功を自慢したいわけでもない。ただ、誰かの生活の一部に、そっと存在していたい。それだけで心が少し満たされる気がするのです。司法書士という仕事が、それを叶えてくれる場面がある限り、私はこの道を続ける理由があります。

承認欲求なのか、それとも寂しさなのか

依頼者に感謝されると、自分の存在が少しだけ肯定された気がします。でも、それって承認欲求なのか、ただの寂しさなのか、境界が曖昧になっています。「仕事を頑張っているから寂しくない」は自己暗示にすぎないのかもしれません。本当は、誰かと一緒に笑い合いたい。ただ、それを素直に認めるのが怖いのです。

一人で仕事を抱えることの代償

一人でなんでも抱え込むのが得意だと思っていました。けれども最近は、その代償として「人に頼る感覚」を失ってしまったことに気づき始めています。誰かに頼ること、甘えること、それができなくなってしまった。自立は美徳かもしれないけど、それが過ぎるとただの孤立になります。時々、少しだけ誰かに寄りかかってもいいのかもしれません。

今の自分を肯定できる日は来るのか

一人で事務所を支えて、地元の人の力になって、たまに感謝されて——それでも、心のどこかに「このままでいいのか」という疑問は残ります。人生の正解なんて誰にもわかりませんが、今の自分を肯定できる日が来れば、それがきっと「おかえり」の代わりになるのかもしれません。そう信じて、また明日も「ただいま」と言うのです。

「孤独だけど、自由」と思うようにしている

自由であることと孤独であることは、紙一重です。誰にも縛られない反面、誰にも守られない。私はその自由を選んだのか、他に選択肢がなかったのか。いまだに自分でも答えが出せません。それでも、「孤独だけど、自由」と思うようにして、なんとか自分を保っています。自由に見えるこの生活は、実は綱渡りのような毎日なんです。

司法書士という職業を選んだ意味を問い直す

この職業を選んだのは、たぶん人の役に立ちたいという思いがあったから。でも、その思いが今もしっかりとあるのか、自問自答することがあります。書類の山に埋もれて、自分の本音が見えなくなっているときこそ、原点に立ち返る必要があるのかもしれません。司法書士として、そして一人の人間として、何を大切にして生きるのか。今日もまた考えながら、静かな夜を過ごします。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。