午前中の静けさがつらく感じるときがある
朝起きて、コーヒーを淹れて、ニュースを眺めながら書類に目を通す。司法書士としての一日は、だいたいそんな静かなルーティンから始まる。でも、ふと気づくことがある。声を出していないのだ。誰とも喋っていない。朝の9時を過ぎ、10時になっても、言葉が口から漏れることはない。そんな午前中が、ふとした瞬間に恐ろしく感じるのだ。
郵便屋さんの声が唯一の生活音になる日
ある日のこと。玄関のチャイムが鳴って「お届け物です」と声がした。慌ててドアを開けて、反射的に「どうも」と返した自分に驚いた。その「どうも」が、その日初めての言葉だったのだ。生活音すらないような午前中。カタカタと書類をめくる音と、キーボードの打鍵音。そこに届いた「お届け物です」という声が、まるでラジオのパーソナリティのように聞こえた。
「お届け物です」だけのやり取りに救われる
その後、郵便屋さんが来るたびに、少し話しかけてみようと思うようになった。「暑いですね」とか「いつもありがとうございます」とか、そんな他愛もない一言でも、声を出すということがこんなに自分を落ち着かせるのかと驚いた。郵便しか来ない静かな午前でも、誰かと一言でも交わせるだけで、妙な安心感を得られる。声は、孤独をゆるめる潤滑油だ。
何も話していない自分に気づいてぞっとする朝
あるとき、郵便屋さんすら来ない午前があった。その日は一歩も外に出ず、事務員もお休みで、一言も話さないまま午後を迎えていた。「おはよう」とすら口にしていないことに気づいた瞬間、なにかがぞっとした。喉は乾かないのに、心がカラカラになっている感覚だった。人と話すことが、こんなにも大事だったとは、自分でも驚くばかりだった。
仕事はあるのに孤独を感じる理由
不思議なことに、仕事は山積みで忙しい。登記の締め切り、顧客からの依頼、法務局とのやり取り。やることはたくさんあるのに、心が空っぽのように感じることがある。手を動かしているのに、誰かとつながっている感覚がない。それが、孤独の正体なのかもしれない。
依頼人とは話しているはずなのに虚しい
クライアントとの電話やメールはある。でも、どれも業務的で、温度が低い。事務的な言葉を交わしているうちに、心が置き去りになるような感覚がする。依頼人とはつながっているはずなのに、実際は誰とも会話していないのではないか。そんな気持ちに襲われる。
電話やメールばかりで顔を合わせない日々
対面での面談も減り、Zoomや電話で済むことが増えた今、ますます「人と会っていない感覚」が強くなる。たとえ声を聞いていても、相手の表情が見えないだけで、ものすごく遠い存在のように思えてしまう。近いようで遠い、そんなやり取りに心が疲れていく。
話しているのは声ではなく文章だけという現実
さらに言えば、メールが中心になると、もう声すら聞かない。文字だけのやり取りは、便利だけど冷たい。感情が入っていない文章を何通も送りあううちに、自分がAIになったかのような錯覚に陥ることもある。こんなにも忙しくしているのに、誰とも「本当の会話」をしていないのだ。
事務員との距離感が絶妙に切ない
一緒に働く事務員は、きちんと仕事をしてくれていてありがたい存在だ。でも、年齢も離れているし、あまり雑談もしない。気を遣われているのが伝わってきて、それがかえって居心地悪く感じることもある。静かな空気が、どこか寂しい。
気を遣ってくれているのが余計にしんどい
「先生、これお願いします」とそっと差し出される書類。言葉は丁寧で申し分ないけれど、どこか壁を感じてしまう。こちらが無口なせいなのか、忙しい雰囲気を出しすぎているのか、ときどき反省する。でも、どう会話を始めればいいのかもわからず、また沈黙の中に戻ってしまう。
気まずさを感じる沈黙とたまの会話
昼休みにたまに交わす世間話も、どこかぎこちない。話が盛り上がることもあれば、早々に沈黙に戻ってしまうこともある。その沈黙が、なぜか心に重くのしかかってくる。気まずくない沈黙って、どうやって作ればいいんだろう。
モテなさと独り身が積み重なる感覚
若い頃は「そのうち結婚すれば自然と変わる」と思っていた。でも45歳を過ぎて気づいたのは、何も変わっていないという事実。仕事は増え、時間は減り、人との出会いは減る一方。そんな中で迎える静かな午前が、ますます身にしみる。
誰かと朝食をとった記憶が思い出せない
朝食を誰かと一緒に食べたのは、いつだっただろう。思い出せるのは学生時代、合宿の食堂くらいだ。今はトーストをかじりながら、ひとりでスマホを眺める朝。独り身の自由さと引き換えに、温かい会話のある朝を手放してしまったのかもしれない。
休日の午前中も話し相手はラジオだけ
仕事がない休日も、特に予定はない。スーパーへ買い物に行くくらいで、会話らしい会話もない。せめてと思ってラジオをつけるが、それすらも虚しく感じるときがある。自分の部屋に流れる他人の声だけが、孤独を彩るBGMになっている。
同じような午前を過ごしている誰かへ
もしかすると、似たような午前を過ごしている人は多いのかもしれない。声を出さず、誰とも会わず、それでも黙々と働いている。そんな人がこの文章に共感してくれたなら、それだけで救われた気になる。静かな午前にも、つながりは存在している。
声が少ない日も誰かが頑張ってる
「今日は誰とも話してないな」と思っているのは自分だけじゃないはずだ。それでも、みんな仕事をして、生活をまわしている。黙っていても、孤独でも、ちゃんと前を向いている。誰かが頑張っていると思うだけで、自分も少しだけ楽になる。
寂しさは弱さじゃない、日常のひとコマ
声がない午前。郵便屋さんの一言。それが日常の一部であっても、別に悪いことじゃない。寂しさは恥ではない。むしろ、それを感じられる感受性こそが、人として大切なのかもしれない。今日も静かな午前を越えて、また一日が始まっていく。