帰宅後の沈黙が心地よい

帰宅後の沈黙が心地よい

帰宅後の沈黙が心地よい

一日中誰かの言葉に振り回されて

朝一番の電話から、夕方最後の相談者まで。司法書士という仕事は「話す」よりも「聞く」仕事だと思う。こちらが話すのは基本的に最小限。けれど、相手の話に耳を傾け、汲み取って、うまく処理しないとクレームにもなる。だから常に神経を張り巡らせている。人の話を聞いているだけなのに、なぜこんなにも疲れるのかと毎日感じている。だからこそ、事務所のドアを閉めた瞬間、無言の空間がこんなにもありがたいとは、昔は思いもしなかった。

依頼者の言葉を真に受けすぎてしまう

「これって無料でやってもらえますよね?」と言われた瞬間、心の中に黒い煙のようなものが立ち上る。表情には出さないけれど、心の中では何度もため息をついている。私は断るのが苦手で、しかも依頼者に情が移ってしまうタイプだ。「ちょっと相談したいだけなんです」と言われれば、「ちょっと」が1時間でも我慢して聞いてしまう。そんな日が続くと、自分の言葉ではなく、他人の言葉に囲まれて一日が終わっているような気がしてしまう。

「ちょっと相談なんですけど」が重い

その一言の裏には、たいてい「お金は払いたくない」「でもプロの知識はほしい」という気持ちが隠れている。もちろん善意で言っている人もいるが、立て続けにそういう依頼が重なると、こっちの善意が削られていくのを感じる。以前、「ちょっといいですか?」と話しかけられ、結局その場で30分も無料で相続の説明をしたことがある。帰り道、コンビニで買ったおにぎりを噛みしめながら「この30分、何だったんだろう」とつぶやいてしまった。

無料相談って誰のためにあるんだろうと考える夜

制度としては素晴らしいし、本当に困っている人に届くのはいいことだ。だけど、現場でそれを担う側からすると、どこかで「自分の時間」がどんどん削られていく感覚がある。無料相談が終わった夜は、なぜか疲れが倍増する。報酬がないからじゃない。見返りがないことにではなく、自分の存在がただの情報提供マシンのように思えてしまうことに、虚しさを感じるのだ。

電話のコール音がトラウマになってきた

電話が鳴るたびに、体がびくっとする。依頼者の声なのか、金融機関の確認か、それとも役所からの催促か。出る前から想像して疲れてしまう。だから最近は、帰宅後は着信音を消している。バイブですら、心臓に悪い。電話対応も仕事のうちとわかってはいるが、「またか」と思ってしまう自分がいる。こんな精神状態でまともに対応できるのかと自問自答する日もある。

休憩中でもスマホが鳴れば現実に引き戻される

喫茶店でひと息ついているときも、ポケットの中でスマホが震えると、顔がこわばる。「今だけは…」という思いを一瞬で打ち砕くあの振動。以前、昼休みにお気に入りのカレー屋に行ったとき、注文直後に銀行からの電話が入った。すぐに事務所に戻り、再度連絡したが、すでに相手の担当者は不在。カレーは冷めて、結局食べる気もなくなった。スマホひとつで昼休みの幸せは簡単に崩れる。

事務所を閉めたあとに広がる静寂

鍵をかけ、シャッターを下ろす。その音が「今日の業務終了」の合図。そこから始まるのは、自分だけの時間。誰にも話しかけられない、何も答えなくていい時間。最初の頃はこの無音が寂しく感じられたが、今では待ち遠しい。静寂というのは、こんなにも優しいのかと気づかされた。音がないというだけで、心の中まで静かになっていく。

テレビをつけず、照明も控えめに

部屋に帰っても、テレビのスイッチには手を伸ばさない。照明も天井の明かりはつけず、デスクライトだけで十分。そうやって部屋全体を薄暗くして、ソファに座る。音のない空間に身を沈めていると、ふと「今日一日、生き抜いたな」と思える瞬間がある。これは誰かと一緒では得られない感覚。独身でよかったと思える、数少ない瞬間かもしれない。

無音の部屋でようやく自分に戻れる

日中は「先生」と呼ばれ、求められる役割を果たすことに追われている。でも、無音の部屋に戻ると、その肩書きがすっと抜け落ちる。「ただの人間」に戻れる場所。それが家なのだと気づいた。以前、仕事帰りに同業の友人と飲んだ帰り道、彼がぽつりと「誰もいない家が一番落ち着くよな」と言った。その言葉に、心の底から頷いた夜がある。

話しかけてくる人がいないことの安心

「おかえり」と言ってくれる人がいない。でも、「何してたの?」と聞かれることもない。それがどれほど救いになっているか。誰かがいる生活に憧れた時期もあったが、いまはそうでもない。気を遣うくらいなら、誰もいないほうがずっといい。沈黙は、気遣いを必要としない。こちらが疲れていても、何も求めてこない。ただそこにある。

寂しさではなく、ほっとする感覚

独り身の夜が寂しいと思ったこともある。けれど、ここ数年はむしろ「ありがたい」と思えるようになった。騒がしい一日を経て、ようやく自分の呼吸が聞こえてくるような夜。静かさが、心を整えてくれる。もしここに誰かがいたら、たぶん私は気を張ってしまって、結局休まらないだろう。静寂は、私にとって最大の癒しなのだ。

静けさの中にある小さな幸福

帰宅後の時間は、何か特別なことをするわけではない。テレビもつけず、スマホも触らず、ただ座っているだけ。けれど、その時間が何よりも贅沢に感じる。人との関わりに疲れた心を、何もない空間がゆっくりと癒してくれる。40代半ばを過ぎてようやく気づいた、「何もしないこと」の尊さ。今ではこの時間を守るために働いているような気さえしている。

湯船で聞こえるのは自分の呼吸だけ

夜の風呂は静けさの極みだ。湯に浸かりながら、耳に届くのは湯音と自分の呼吸だけ。誰にも邪魔されない空間。以前はシャワー派だったが、今では毎晩の入浴が一日のご褒美になっている。仕事のことも、悩みも、肩の力も、湯に流してしまえたらいいのに。そう思いながら、ぼんやりと天井を見つめていると、自然と深呼吸している自分に気づく。

深呼吸ができるのは誰もいないからこそ

誰かが同じ空間にいると、なぜか呼吸も浅くなる。意識していなくても、緊張しているのだろう。だから一人きりの空間でようやく、肺の奥まで空気を吸える気がする。これは別に「孤独が好き」ということではない。ただ、ようやく自分を取り戻せる瞬間が、そこにあるというだけだ。静けさの中の深呼吸は、今日を終える合図でもあり、明日を迎える準備でもある。

音のない部屋で飲む一杯のコーヒー

夜中に淹れるインスタントのコーヒー。高級な豆でもなんでもない。ただ、湯を沸かし、カップに注ぎ、ぼんやりと湯気を眺める。その時間が好きだ。味なんてよくわからない。ただ、「誰にも邪魔されない」ということだけが、何よりのスパイスになっている。静かな部屋で、誰にも気を遣わず、ただ黙ってコーヒーを口に運ぶ。その行為が、私の中の何かをリセットしてくれる。

味なんてよくわからないけど、とにかく落ち着く

本当は味なんてどうでもいいのかもしれない。必要なのは“コーヒーを飲む時間”そのもの。誰かと飲むより、一人で飲む方が、心の底から落ち着けると感じてしまうのは、やっぱり疲れているからだろう。無理して会話をしなくていい。無理して笑わなくていい。ただ目の前の湯気を眺めていれば、それで十分だと思える夜が、増えてきた。

「誰かと一緒にいたい」と思わない夜

世間では「誰かと一緒に暮らす」ことが当たり前のように語られるけれど、自分にとってはそうでもない。そうなればそれなりに幸せなのだろうけど、「誰かといるために、今の静けさを手放すのか」と考えると、ためらってしまう。帰宅後の沈黙は、日中の騒がしさに対する最大の救済なのだ。

話し相手がいない不安よりも、会話の煩わしさが勝つ

「ただいま」と言う相手がいない。そんな夜が毎日だけれど、最近はそれを不幸だと思わなくなった。むしろ、「今日こんなことがあってさ」と話すために、また気を遣う自分が想像できてしまう。だったら沈黙のまま、ひとりの夜を迎えるほうが、ずっと楽。安心感と煩わしさは、天秤にかけるまでもなく、私は前者を選んでしまう。

人に気を遣わずに済む贅沢

誰かが家にいるということは、きっと温かくて、支えにもなる。でもその一方で、気を遣う場面も増えるのだろう。相手の体調や気分に左右され、自分のペースを崩される。そんなことを考えてしまうから、私は今の暮らしに十分満足してしまっている。沈黙は時に孤独を生むが、それでも自分の心を守ってくれる。

「独り」であることと「孤独」とは違う

ひとりでいると、「寂しくないの?」とよく聞かれる。でもそれは、孤独とは違う。必要な時に誰かと関わり、それ以外は静けさに身を委ねる。そういうバランスが、今の自分にはちょうどいい。司法書士という職業柄、常に誰かと向き合い続けているからこそ、ひとりになれる時間が本当にありがたいのだ。

誰とも関わらないことで自分を守っている

結局のところ、自分を一番疲れさせるのは「人との関係」なのかもしれない。仕事上は避けられないが、せめて家にいるときくらいは、誰の言葉にも反応したくない。沈黙は、そんな自分を包んでくれる。誰とも関わらず、ただ静かに過ごすことで、ようやく翌日の準備ができる。私はこの静けさを、これからも大事にしていきたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。