朝、玄関を出るまでの戦い
目が覚めた瞬間、「今日は無理だな」と思う日がある。布団の中から天井を見つめたまま、出勤までの段取りを頭の中で何度もシミュレーションするが、身体はまったく動かない。外に出るというだけで、まるで崖を登るような重さがある。司法書士という仕事柄、基本的に人に会うのが前提なのに、そんな日でも電話は鳴るし、依頼者はやってくる。わかってはいるのに、「今日は誰にも会いたくない」と願ってしまう。この感情、なかなか口には出せない。
着替える気力すら湧かない
スーツに袖を通すという、ただそれだけの行動が、妙に遠く感じる朝がある。Yシャツにアイロンをかけることすら億劫で、昨日と同じものを着てしまおうかと自分に言い訳する。これは単なる怠けではなく、心が「今日は人と向き合う準備ができていない」と訴えているサインかもしれない。何年もこの仕事をしていると、こういう朝がときどきあることを自覚するようになった。でも、毎回「自分は向いていないのでは」と落ち込んでしまうのが厄介なのだ。
シャツを選ぶのにもエネルギーがいる
クローゼットの前に立ち尽くし、白シャツと青シャツを前に5分、10分と経過する。誰が見るわけでもないのに、「清潔感のある印象にしないと」と自分を追い詰める。その思考自体が、さらに疲労を呼ぶ。「今日は会話のない一日ならいいのに」なんて願いながら、結局どちらでもないくたびれたシャツを手に取る。そこにすでに、その日のしんどさがにじんでいる気がして、ますます気が滅入る。
今日は誰にも会いたくないという感情
ふとした瞬間に「今日は誰にも会いたくない」と思うことがある。誰かとトラブルがあったわけでもなく、特別嫌な予定があるわけでもない。ただ、何かを説明したり、愛想笑いをしたり、そんな“社会的な自分”を演じるのが面倒になる日がある。まるで舞台に立ち続ける役者が、カーテンコールを拒否するかのように。司法書士という看板を背負う限り、常に“ちゃんとした人”でいなければならないというプレッシャーも、この感情を育ててしまうのだろう。
依頼者の一言が胸に刺さる日
「忙しそうですね」と言われると、なぜだか胸がチクリとする。それは相手の悪意ではなく、むしろ気遣いの言葉なのだが、自分の中の余裕のなさや、どこか満たされない気持ちを逆撫ですることがある。余裕のない自分を悟られたくないのに、心を読まれたような気がして、思わず笑顔もひきつってしまう。こういう日は、どんな言葉も過剰に反応してしまい、後から「あれはどういう意味だったんだろう」とグルグル考えてしまう。
「忙しそうですね」の裏を読んでしまう
依頼者に「お忙しそうですね」と言われると、「もしかして、ちゃんと対応できてないと思われてる?」と変な勘繰りをしてしまう。もちろん相手にそんな意図はないのは分かっている。でも、心が疲れているときほど、そうした言葉の裏に勝手に意味を見出して、自分を責めてしまう。ちょっとした会話が、自分にとっては地雷のように感じる日があるのだ。
自分の対応が雑だったんじゃないかと悩む
「あの説明、分かりにくかったかな」「電話の声が冷たかったかな」と、仕事の後に反省が止まらなくなる日もある。疲れている自分に気づかず、無理に通常運転をしようとして、どこかで“ズレ”が生じてしまっている。その小さなズレを、依頼者の一言が照らし出してしまうと、急に自分の未熟さが暴かれたような気持ちになる。こんな日は、本当にしんどい。
相手の何気ない言葉がしんどい理由
結局のところ、心が弱っているときは、すべての言葉が鋭く突き刺さってしまう。「忙しそうですね」「お若く見えますね」「司法書士って大変なんですね」――本来ならありがたい言葉ですら、なぜか自分のコンディションを責めるように聞こえてしまう。そういう日は、人と話すことでエネルギーを消費するだけでなく、自分にダメージを負ってしまう。そして、また明日が怖くなる。
人と話すことへの疲労感
話すこと自体がしんどくなる日がある。特に初対面の人と会う日や、込み入った相談が続く日は、話し終えたあとにどっと疲れが押し寄せる。「たった30分の面談なのに、なぜこんなにぐったりするんだろう」と思うこともあるが、それは単に“話す”だけではなく、“人間関係を演じる”ことに疲れているのかもしれない。言葉を選び、気を配り、表情を作る。それはまるで舞台俳優のような作業だ。
相手の表情を気にしすぎてしまう性格
相手のちょっとした顔の動きや言葉のトーンに過剰に反応してしまう。自分の説明で納得してくれているか、失礼になっていないか、ずっと探りを入れてしまう。だから一回の面談が終わると、まるで試験が終わったあとのような脱力感に襲われる。これが一日数件もあると、家に帰るころにはもう言葉を発する気力もなくなっている。
雑談すらプレッシャーに感じるとき
世間話や雑談は、本来コミュニケーションを円滑にするもののはずなのに、自分にとっては“試されている時間”に感じることがある。特に相手がテンション高めだと、こちらもそれに合わせないといけないというプレッシャーが生まれる。でも心が疲れている日は、その温度差がただただ苦しい。会話の中身よりも、そこに自分を“演出”し続けることが、何よりもしんどいのだ。
事務員との会話も面倒になる日
普段は支えてくれている事務員さんとの会話ですら、「今は静かにしておいてほしい」と感じる日がある。決して相手が悪いわけではない。むしろ気を使ってくれているのは分かっている。でも、自分の心の余裕がゼロになっているときには、その優しさすら重たく感じてしまうことがある。そんな自分が嫌で、また自己嫌悪に陥る。
優しく接したいのに、声をかける余裕がない
「お疲れさまです」の一言ですら、今日は出てこない。パソコン画面ばかり見て、必要最低限のやり取りしかしない。ふと、事務員さんの表情が曇っているように見えて、「あぁ、気まずくさせたな」と反省する。でも、優しく声をかける余裕が、自分のどこにも見当たらない。そういう日は、本当に自己嫌悪のオンパレードだ。
無口な一日が続くときの罪悪感
話しかけられないことを、どこかで望んでいたくせに、いざ本当に誰とも話さないまま一日が終わると、妙な罪悪感が押し寄せる。「もっと明るく振る舞うべきだったんじゃないか」「せっかく一緒に働いているのに、冷たい態度だったかも」と後悔が残る。そして、その反省を胸に、翌朝また玄関の前で立ちすくむ。そんな日々の繰り返しだ。
それでも仕事は待ってくれない
どんなにしんどくても、依頼の締切は動いてくれない。登記の期日、法務局の手続き、役所の書類取得――すべては待ったなし。だから、「今日は人に会いたくない」と思っても、なんだかんだで身体を動かし、笑顔を作り、事務所のドアを開ける。そうやってなんとか毎日を乗り越えている。しんどさを抱えながらも、それでも続けている自分を、たまには褒めてやりたい。
「登記の締切」という呪文
「登記の締切があるから」は、自分にとって行動を起こす最後のスイッチのようなもの。正直、動きたくない。でも締切という言葉には抗えない。「仕事だから」「責任があるから」と自分に言い聞かせて、なんとか動き出す。それが正解かどうかはわからない。でも、今日もまた、人に会うのがしんどい日を、ひとつ乗り越えた。
誰とも話さずに終わる仕事のありがたさと寂しさ
時折やってくる、誰とも会わずに黙々と書類作成だけで終わる日。それは救いのようであり、寂しさのようでもある。誰とも関わらないことで心は少し楽になるけれど、「このままずっと一人なのかもしれない」という孤独感がふいに顔を出す。人に会うのがしんどいけれど、誰にも会わないのもしんどい。そんな矛盾を抱えながら、明日もまた、玄関を出る。