誕生日より先に登記の締切を思い出す日が来た

誕生日より先に登記の締切を思い出す日が来た

気づけば誕生日より先に締切が頭に浮かぶ

朝、目覚めてぼんやりと天井を見つめていたら、ふと「あれ、今日って登記の締切だっけ」と思った。次の瞬間、それよりも先に思い出すべきだったはずの「自分の誕生日」がすっぽり抜け落ちていたことに気づく。司法書士という仕事柄、登記の期限には神経質なくらい敏感で、時には夜中に目を覚ましスケジュールを再確認する始末だ。それなのに、年に一度の記念日には気が回らなかった。ちょっとだけ、自分が機械になったような気がした。

カレンダーを見ても目に入るのは期限だけ

毎朝、事務所のカレンダーを確認するのが習慣になっているが、そこに書き込まれているのは「所有権移転登記」「抵当権設定」「抹消申請」などの文字ばかり。赤い丸で囲まれているのは、私の誕生日ではなく、提出期限を意味するチェック印だ。大事なクライアントの案件が重なれば、土日も関係ない。プライベートの予定は後回しになり、気がつけばカレンダーが業務報だけで埋まっている。誕生日くらい自分で書き込めばいいのに、という声が聞こえてきそうだが、正直その余裕すらない。

赤い字の日は休みじゃなくて申請期日

世間では「祝日」と呼ばれる赤い日も、我々司法書士にとっては油断できない日だ。法務局が休みとなる関係で、その前日が事実上の締切となる。つまり祝日の前はいつもより緊張感が増す。お盆やゴールデンウィーク前なんて、電話もメールもフル稼働で、もはや“繁忙期”というより“戦場”だ。そんな状態が続けば、そりゃ誕生日も忘れるわけだ。自分を祝う余裕なんて、申請が通ってからでないと生まれないのが本音だ。

祝日よりも大事な法務局の開庁日

以前、誕生日がちょうど月曜日だった年があった。法務局は通常どおり開庁していて、その日は朝から遺産分割協議書の添付書類チェックに追われていた。午後には決済もあり、銀行に走り、取引先に確認をとり、夕方には登記申請。ふと時計を見ると19時を過ぎていた。コンビニで弁当を買って帰宅し、テレビをつけた瞬間「今日が誕生日だった」と思い出した。感慨はなかった。ただ、「まあ、申請ミスがなくて良かった」という安堵だけが残った。

誕生日を忘れた瞬間に感じた空しさ

記念日を忘れるのは年齢のせいでもあるのかもしれないが、やっぱり少しだけ心がざらつく。誰かに責められるわけじゃないのに、自分のことを一番後回しにしている気がして、なんだか虚しい。年々、自分の誕生日への期待値は下がっていく一方だけれど、それでも忘れていたと気づいたときの胸の奥のスースーした感じは、少し応える。仕事に追われることで守っているものと、失っていくもの。そのバランスの難しさを感じる瞬間だった。

自分のことを後回しにしすぎた結果

誕生日を忘れた自分に気づいたあと、ふと学生時代の友人が「今日はお前の誕生日じゃなかったっけ?」とLINEしてくれた。それを見て、一気に現実に引き戻された。そうか、そうだった。慌てて返信しながら、ろくに返せていない年賀状や、連絡を途絶えさせてしまった旧友のことが頭をよぎった。仕事の責任が重くなるほど、プライベートは後回しになる。そして気づけば、自分の感情もどこかに置き去りにしてしまっていた。

ケーキどころか夕飯もコンビニ

「せめて自分にご褒美を」と思っても、仕事帰りに寄れる店はコンビニくらいしかない。ホールケーキなんてもちろん買わないし、シュークリームすらも選ぶ気力が湧かない。結局、冷たいパスタとからあげ棒を手に取り、レジの前で「ああ俺って独身だなあ」と実感する。誰かが用意してくれるケーキが恋しいわけじゃない。ただ、“祝われる存在”であることをたまには味わってみたいという、ささやかな願望があるだけだ。

おめでとうのLINEより先に届く登記情報

毎年誕生日が近づくと、なぜか増える登記依頼。タイミングが悪いのか、良いのか。朝一番に届くのは「おめでとう」ではなく、依頼人からの「至急でお願いできますか?」というメッセージ。携帯が鳴って「ついに祝ってくれるか」と思ったら、金融機関からの確認連絡。司法書士である前に人間でいたいと願っても、現実は書類と数字の中で生きている。せめて、自分くらいは自分の誕生日を覚えていてあげるべきだった。

仕事に飲まれると大切なことを見失う

誕生日を忘れるなんて些細なことかもしれない。でもその小さな忘却の積み重ねが、「自分が何のために働いているのか」を見失わせる。たしかに依頼者の笑顔や感謝の言葉はやりがいになる。しかし、そのために自分の心を削りすぎてはいないか。司法書士という仕事の尊さを大事にしながらも、もっと自分の生活も、感情も、見つめ直さなければと感じた。誕生日は、そのきっかけをくれた小さな警鐘だったのかもしれない。

依頼者の希望は最優先で当然だけれど

登記の世界では「間に合わなかった」は許されない。だからこそ、依頼者の希望が最優先になるのは当然だ。だが、その「当然」に慣れすぎてしまった自分が怖い。誰かの希望を叶えるために、いつの間にか自分の希望は霞んでしまった。自分の人生の舵を取っているつもりで、実は依頼人のスケジュールで操縦されているような日々。それでも責任感だけは強いから、断れない。それが苦しさの正体だと思う。

誰にも責められていないのに疲れがたまる

誰かに怒られたわけじゃない。クレームを受けたわけでもない。それでも、体の芯から疲れている感覚が抜けないことがある。これはきっと、心が休めていない証拠だ。予定が詰まりすぎて、空白が怖くなる。スマホを見ると、次の予定、次の書類、次の納期。人間としての感覚より、スケジューラーの通知の方が優先されていく日常。それを止めるには、誰かに言われる前に、自分自身が「もう限界だ」と認めるしかない。

そんな自分が好きですかと自問してみた

書類の山に囲まれながら、ふと立ち止まって自分に問いかける。「そんな自分が本当に好きなのか」と。誇りを持ってやってきたはずの司法書士という仕事。でも、それに飲み込まれて、自分の人生の色が薄くなってきているようにも感じる。仕事がすべてではない、と言える人がうらやましい。自分にとって「誕生日を忘れるほどの仕事」とは、果たして誇れるものなのか。今はまだ、その答えを探している途中だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓