やることは山ほどあるのに、心はぽっかり空いている

やることは山ほどあるのに、心はぽっかり空いている

忙しさに追われながら、心だけがどこか遠くにある

「今日もよく働いたな」と事務所のドアを閉めた帰り道。時計を見ると19時過ぎ。登記申請の確認、依頼者への連絡、法務局への往復、細かい書類の精査に目を通し、気がつけば一日が終わっていた。でも、心は全然動いていない。充実しているはずなのに、どこかで「何も感じていない自分」がいる。仕事は山ほどこなしているのに、心が参加していないような感覚。まるで体だけが働いていて、心は別室で暇そうにしているような、そんな違和感が最近増えてきた。

書類に埋もれていても、気持ちは空っぽ

朝から書類の山に囲まれていると、自然と手は動き始める。申請書を整え、不備を確認し、決済の段取りを調整しながら、次々と業務を処理していく。けれど、そんな流れ作業の中でふと立ち止まった瞬間、「今、自分って何かを感じてたっけ?」と空白に気づく。かつては緊張したり、達成感を得たり、ちょっとした嬉しさがあった。でも今は、「うまく終わった」ではなく、「なんとかこなした」という感覚だけが残る。心がついてこないのは、疲れすぎているのか、それとも慣れすぎてしまったのか。

体は動いているのに、感情がついてこない

「お疲れさまです」と依頼者に声をかける時、自分の声がどこか他人事に聞こえる日がある。ルーチンの中で、心のスイッチを入れ忘れてしまったような感覚。たとえばコンビニのレジ打ちのように、決まったフレーズと対応を繰り返すうちに、自分の感情がどこかへ行ってしまう。司法書士という職業は、とにかく「正確」であることが求められる。それがゆえに、気持ちを挟む余地がどんどん少なくなっていく。気づけば、心は暇を持て余しているのに、身体はずっと動き続けている。

「今日も頑張った」はずなのに、達成感がない

一日を終えて、事務所を出るときに「今日もよくやった」と思える日がある。でも、その感情はいつも薄い。かつては一件ごとの達成感があった。「ああ、あの依頼者に喜んでもらえたな」とか、「この登記は難しかったけど無事通ったな」とか。でも今は、「とにかく今日も終わった」という疲労感だけが残る。仕事が嫌なわけじゃない。ただ、心が反応しない。そうなると、「頑張った」という実感も、どこか空回りするだけになるのだ。

「忙しい」と言いながら、本当は心が暇で仕方ない

「忙しいですね」が挨拶代わりになって久しい。でも、実際のところ、心の中では「何か物足りない」と感じているのも事実だ。スケジュールは詰まっていても、気持ちが乗っていない。仕事をしていないと落ち着かないのに、していても充実感が薄い。このジレンマが、どこかで心の疲れとなって蓄積している気がする。多忙な毎日だからこそ、本来感じるはずだった感情にまで、目が届かなくなっているのかもしれない。

手帳は埋まっているのに、気持ちは手持ちぶさた

手帳を開けば、ぎっしりと予定が詰まっている。登記、打ち合わせ、銀行、司法書士会…。なのに、心はぽっかりと空いたまま。その空洞を、スケジュールで無理やり埋めているような錯覚すらある。忙しく動いていることで、自分の虚しさをごまかしているような、そんな自覚もある。予定があるから安心しているだけで、本当は「その予定に意味を感じていない」自分がいるのだ。これは、ただの時間の埋め合わせに過ぎないのかもしれない。

人と会っても、どこか“繋がってない”感覚

クライアントや同業者と会って話していても、ふと「今、自分はちゃんと会話してるか?」と思うことがある。形式的なやり取りはこなしている。でも、心はそこにない。相手の言葉にうなずいても、本当の意味で受け止められていない気がする。もしかしたら相手も同じなのかもしれない。形式だけのやり取りの中では、感情の交流は生まれない。だからこそ、会って話してもどこか虚しく、帰り道に孤独だけが残るのだ。

いつからだろう、仕事をしても心が満たされなくなったのは

司法書士になったばかりの頃は、どんな仕事にも意味を感じていた。依頼者の言葉に耳を傾け、案件ごとに新しい発見があり、毎日が刺激的だった。でも、いつの間にかそれが“日常”になり、“作業”になり、“消化”になってしまった。そうなると、心が動く機会はどんどん減っていく。「慣れ」は必要だ。でも、「感じなくなること」は決して良いことではない。今、自分の中で失われつつあるものに、そろそろ目を向けないといけないのかもしれない。

こなすことばかりで、感じることを忘れていた

最近の私は「感じる」より「こなす」を優先していた。効率を上げ、時間を短縮し、ミスを減らし、利益を確保する――そんなことばかりに集中していた結果、心は後回しになった。何をしても心が動かないのは、そうやって“感じる機会”を自分で削ってきたからなのかもしれない。「感動」は時間がかかる。「共感」は余裕が必要だ。目の前のタスクを片付けることばかりに追われていた私は、それをすっかり忘れていた。

「処理する人生」に慣れてしまった代償

司法書士という仕事は、まさに「処理」の連続だ。依頼を受け、必要書類をそろえ、期限内に提出する。その繰り返し。そこに感情を乗せる余裕はないし、むしろ冷静であることが求められる。だからこそ、私たちは「感じないこと」に慣れてしまいやすいのだと思う。処理の精度が高まる一方で、心はどんどん無表情になっていく。便利で正確な「仕事マシン」になったとしても、それが幸せとは限らない。むしろ、その代償は思った以上に大きい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。