境界線は誰のものか
市街化調整区域のはずれ、ぽつんと取り残された空き地のことで、隣地の持ち主から境界確認書に署名してくれと言われたのが始まりだった。
ただの確認作業だと思って気軽に引き受けたが、持ち込まれた書類に違和感があった。
杭が、ない。少なくとも、確認書にはその位置が記されていなかった。
境界確認書に署名された静寂
依頼人はまるで美術品でも見せるように丁寧に、境界確認書と地積測量図を差し出した。
筆界点と記された印は三か所、しかし通常あるべき北東角の杭がどうにも見当たらない。
「測量士の先生が大丈夫って言ってたんで」と依頼人は軽く笑ったが、その笑みが不自然だった。
ひとつ足りない印影
登記官への提出用に複製された確認書を見ているうちに、印鑑の押された場所に微妙な空白があるのに気づいた。
そこだけ朱肉がかすれたように滲んでいる。筆跡はあるのに、印影がうっすらとしていた。
「もしかして、これ……誰かが後から書き足した?」と、頭の中に警鐘が鳴り始めた。
依頼人は古びた地積測量図を持ってきた
翌日、依頼人はさらに古い測量図を持参してきた。
「こちらのほうが正確だと思います」と言うが、どうにも妙だ。
記載されている地番と、現在の筆界が微妙にずれていた。
三年前の筆界特定申請の痕跡
古い測量図の端に、「平成三十年 筆界特定申請済」と書かれた朱書きが残っていた。
その事実を依頼人は語らなかった。まるでそれがなかったことになっているようだった。
サトウさんが、静かに言った。「この図、三年前の事件で使われたやつです」
杭があったはずの場所に立つ花壇
現地に赴いてみると、確かに杭があるべき場所に四角いコンクリートの花壇が置かれていた。
しかもやたらと新しい。そこだけ土が盛られていた形跡がある。
まるで杭の存在を、意図的に隠したような設計だった。
サトウさんの即断と冷静な視線
「これ、わざとですね」
彼女は境界標識の代わりに置かれたレンガを指差し、スマートフォンで写真を撮っていた。
その眼差しは、どこか名探偵コナンの蘭姉ちゃんを彷彿とさせた。
一筆入れた女の名前
調べてみると、確認書に署名したという隣地の所有者は数年前に亡くなっていた。
その娘が今の所有者だったが、境界確認書にはその娘ではなく母親の名前が記されていた。
「死者の署名は、さすがに無効ですね」とサトウさんは呟いた。
そこにはないはずの境界票写真
区役所で保管されていた過去の調査写真に、問題の杭がしっかり写っていた。
しかも、現在の花壇とは明らかに位置が違う。
杭があったのは、今の隣家の敷地の中。つまり、杭は故意に引っこ抜かれ、移動されていたのだ。
そして昔話になるはずだった野球の話
調査の帰り、なんとなく昔話をしながら歩いていた。
「俺、野球部だったんですよ、こう見えて」と言うと、サトウさんは「へえ」とだけ返した。
「バットのグリップと杭って、似てるんですよ。握ったときの感じが」なんて、どうでもいい話だった。
やれやれ、、、泥まみれで思い出した光景
その瞬間、泥の上に半分埋もれた杭の金属反射を見つけた。
「これ、もしかして」慌てて掘り返すと、それは紛れもなく過去の杭だった。
やれやれ、、、偶然なのか、うっかりの勘なのか、自分でもよくわからなかった。
夜の現地調査で見えた真実
夜、懐中電灯を片手に再び現地を訪れると、近くの側溝に不自然な穴が開いていた。
そこに、もう一つの杭が投げ込まれていたのだ。
「証拠隠滅としては雑ですね」と、サトウさんは小さくため息をついた。
フェンスの下に埋もれていた杭
最初に疑った北東角、そこにぴたりとはまる古い杭。
そしてその周囲に、かつてのフェンスの位置を示す痕跡が残っていた。
地積測量図と完全に一致していた。
あの日動かされた境界の証拠
元所有者が亡くなった直後に、隣家の人物が杭を動かし、花壇を設置したことが発覚した。
証拠写真、過去の資料、そして私たちが見つけた杭。
それだけで、全てが繋がった。
決着の地で交わされた沈黙の契約
交渉の場に現れたのは、隣家の現所有者だった。
黙って頭を下げ、確認書の再作成に応じた。
法務局提出用の書類にも、新たな境界図が添えられた。
確認書の裏に隠された印影
後日、以前の確認書の裏から、朱肉で書かれたような数字が浮かび上がった。
筆跡鑑定の結果、亡くなった前所有者の筆跡ではなかった。
すべてが偽造だったのだ。
土地家屋調査士の告白
後に、依頼人が使った土地家屋調査士が、不正を黙認していたことが明るみに出た。
「報酬が良かったもので……」と彼はポツリと漏らしたが、当然その代償は大きかった。
免許停止、行政処分、そして長い沈黙。
解決後の静かな朝
事務所に戻ると、サトウさんはいつものようにパソコンに向かっていた。
「コーヒー入れましたよ」とだけ言って、こちらを見なかった。
やれやれ、、、またしばらくは、平穏な日々が続くといいのだが。
サトウさんの無言とコーヒーの香り
その背中を見ながら、ふとサザエさんのエンディングみたいに、日常が戻ってきたことを実感した。
コーヒーの香りが事務所に漂い、なんとなく落ち着く。
事件は解決したが、またいつか何かが始まりそうな、そんな予感があった。
境界線は見えなくても
紙の上の線は、見ようと思えば簡単に消せる。
でも、本当に大切なのは、その土地にある暮らしや記憶なんじゃないか。
そんなことを考えながら、今日もまた依頼の電話を取ることにした。