カレンダーに書かれたのは全部他人の予定

カレンダーに書かれたのは全部他人の予定

忙しいだけの毎日に、自分の予定が見当たらない

朝デスクに座ると、まず確認するのはGoogleカレンダー。通知が鳴っているのは、すべて依頼者や関係先の予定ばかり。つい反射的に「ああ、今日も誰かのために動く日か」と肩を落とす。独立してからずっとこの調子で、自分のことを予定に入れた記憶は、正直あまりない。旅行も映画も、書きたい記事すら、どれも「空いたらやる」のまま5年経った。カレンダーを開くたびに、自分が主役じゃない人生を眺めているような気分になる。

朝一番に確認するのは「誰かの用事」

「○○様、不動産の登記10時から」「△△銀行 14時面談」——こういう予定が並んでいると、なんとなく充実しているように見える。でも実際は、その合間に処理すべき書類や電話も山ほどあって、自分の食事や休憩は後回し。カレンダーが“埋まっている”のは、自分が忙しいからではなく、他人の要望に応え続けた結果だ。自分の時間はどこにも表示されていない。表示しようともしてこなかった。どこかで、「自分のために時間を使うのは悪いこと」と思い込んでいたのかもしれない。

自分の時間だと思っていた時間の正体

午後3時に「空き」と記された枠があるとする。でもそれは「休憩時間」ではなく、「他の人の予定がまだ決まっていないだけの時間」でしかない。誰かから「この時間、空いてます?」と聞かれれば、つい「大丈夫ですよ」と答えてしまう自分がいる。結果、1週間後にその「空き」は「会議」「訪問」「書類引き取り」などで埋まっていく。この循環に自分の意志はどこにもない。ただ、受け身で埋められていくだけの存在になっている。

カレンダーが埋まっていくスピードに、心がついていかない

ある週の月曜日、出勤してカレンダーを開いた瞬間、火曜日から金曜日までがすでに色分けされた予定で満ちていた。その瞬間、心の奥底から「うわ…」と小さくため息が漏れた。毎週、誰かとの予定に追われ、終わらないタスクを後回しにして、そのまま忘れたふりをする。気づけば、誰かのための人生をスケジュール通りにこなしているだけ。自分の「やりたいこと」はどこか遠く、手を伸ばしても届かない場所にあるような気がしてしまう。

「司法書士=融通が利く」は誰が言い出した?

「個人事務所なんだから、時間は自由でしょ?」とよく言われる。でも実際は全然そんなことはない。むしろ、誰よりも時間に縛られ、誰よりも誰かの都合に合わせて生きている職業かもしれない。相手の希望に応えることで仕事は成立するが、それと引き換えに、自分の時間は削られていく一方。自由に見える職業の裏側は、他人の期待に応え続ける「義務」の積み重ねだ。

土日も夜間も「ついでに相談いいですか?」の圧力

土曜の昼下がり、近くの喫茶店でのんびりしようとすると、LINEが鳴る。「今日近くまで行くので、少しだけ相談いいですか?」。断ればいいのに、なぜか「いいですよ」と返してしまう。なぜかというと、それが“誠実な司法書士”のあり方だと刷り込まれてしまっているからだ。だが、それを繰り返してきた結果、自分の休日は「他人のついで相談」で消費される時間になった。

休みのはずの時間にスマホが鳴る恐怖

「電話はいつでも大丈夫ですか?」と事前に言われると、つい「はい、大丈夫です」と返す。でも実際に、日曜の夕方に電話が鳴ると、心臓がドキッとする。「今だけは、お願いだから放っておいてくれ」と思うけど、出ないわけにもいかない。結局、10分だけのつもりが30分話し込む羽目に。そしてその日1日が、なんとなく終わってしまう。これが積み重なると、休日が「休む日」ではなく「出番が来るまでの待機日」になっていく。

他人の予定で生きる日々に感じる小さな虚しさ

誰かのために動いて、感謝される。それは嬉しい。でも、終わったあとにふと湧き上がるのは、静かな虚無感。自分が何かを成し遂げた実感よりも、「ああ、また自分の時間がひとつ消えたな」という喪失感。人の役に立っているのは間違いない。でも、自分が自分の人生を生きていない感覚は、消えないままだ。

昼ごはんすら“ついで”で済ませる日々

昼休みなんて名ばかりで、書類を片手にコンビニのおにぎりを頬張るのが日常になっている。たまに、少し離れた喫茶店で食事をしようと思っても、電話や来客の予定が気になって足が向かない。昼ごはんすら“ついで”になってしまう暮らしは、自分を雑に扱っている証拠なのかもしれない。でも、仕事を優先した結果だから仕方ないと、自分に言い訳することにも慣れてしまっている。

気づけばコンビニの新商品にだけ詳しくなった

ここ数年で一番詳しくなったのは、近所のコンビニのお弁当とスイーツの新商品情報。皮肉なことに、それが一番身近な「楽しみ」になってしまっている。SNSで「今日のごほうび」とか「自分にプレゼント」と言っている投稿を見て、ふと「俺のごほうびって、スプーンつきのプリンか…」と思うこともある。それが悪いわけじゃない。でも、何か違うんじゃないか、とも思う。

「ちゃんと休んでくださいね」と言われる側の皮肉

ありがたいことに、依頼者の方は優しい人が多い。「お忙しいと思いますが、ちゃんと休んでくださいね」と声をかけてくれる。でもその人たちが予定を詰め込んでくる相手が、まさに“休めていない本人”だというのは、ちょっと皮肉だ。もちろん悪気はない。でもその“善意”に応えることが、自分の負担を増やしているのもまた事実だ。

空白の予定に「自分」を取り戻すということ

最近、意識的に「空白」の時間を予定に入れるようにしてみた。たとえば、「14時〜16時:なにもしない」と書いてみる。最初は罪悪感がすごかったけど、それでもカレンダーに書いたおかげで、なんとか死守できることもある。“自分の予定”を優先することは、わがままでも贅沢でもなく、生きていくために必要なことなのだと、ようやく思えるようになってきた。

本当に空けておきたいのは“予定のない時間”

誰にも使われない時間。誰にも連絡されない時間。ただ自分がぼーっとしていても怒られない時間。それこそが、今の自分にとって一番の贅沢だと思う。お金でも名誉でもなく、誰にも邪魔されない2時間。それだけで、翌日の自分はずいぶん楽になる。不思議なものだが、自分を労わる時間は、仕事の効率すら上げてくれることに気づいた。

カレンダーに「なにもしない」と書いてみた

予定表に「なにもしない」と入力するのは、最初はちょっと恥ずかしかった。でもそれを入れることで、「この時間は何も詰め込まない」と自分に宣言できた気がする。結果的に、その時間に読書をしたり、散歩したり、昼寝をしたりして、心が少しだけ軽くなった。司法書士も人間だ。当たり前のことを、自分でようやく思い出した。

他人の都合を一度横に置く練習

すぐに人のために動いてしまう癖は、簡単には直らない。でも、一度だけ「申し訳ないですが、その時間は都合がつきません」と言ってみた。怖かった。でも意外と、「あ、じゃあ別の日で大丈夫です」とあっさり返された。他人の都合は、実は思っていたほど絶対ではない。まずは一歩、自分の都合を優先する勇気が必要なのだと思う。

同じように頑張ってる誰かへ

もしかしたら、この記事を読んでいるあなたも、自分の予定が他人のために埋まってしまっているのかもしれない。仕事だから、期待に応えたいから、理由はいろいろある。でも時には、「この予定、私のだっけ?」と問いかけてみてほしい。そうやって、自分の人生を取り戻すきっかけになればと思う。

「それ、あなたの予定ですか?」と問いかけてみてほしい

忙しい日々の中で、予定がぎゅうぎゅうに詰まっていると、それだけで「やっている感」が出る。でも、その予定が本当に“自分のもの”かどうかは、意外と見落としがちだ。毎週日曜の夜に、カレンダーを見ながら一つ一つ確認してみる。「これは自分の意志で入れた予定か?」と。そうやって確認するだけで、少しずつ変わっていける気がする。

人に優しくする前に、自分に優しくできるかどうか

他人に優しくすることは素晴らしい。でも、それが自分をすり減らす優しさになっていないか、自問することも必要だ。自分の心や体が壊れてからでは遅い。まずは自分に優しくする。そうすれば、そのあとで人にかける言葉も、もっと余裕のあるものになる。無理して笑うより、心からの「大丈夫ですよ」のほうが、ずっと強い。

他人の予定で埋まったカレンダーが、全部悪いわけじゃない

最後に。人のために動くこと、それ自体は決して悪いことではない。むしろ誇らしい。問題は、そればかりになってしまうこと。バランスが崩れたとき、ふとした拍子に、自分がいない人生に気づいてしまう。カレンダーには他人の予定も、自分の予定も並べていい。どちらか一方ではなく、両方あって初めて、自分らしい日々になるのだと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。