ふと落ち込む、あの静かな時間
夕方、ふと手が止まることがある。別に大きなトラブルがあったわけじゃない。誰かに怒鳴られたわけでもない。むしろ順調に業務は終わっている。だけど、なんとなく心が重い。夕焼けが窓に差し込んでくるあの時間帯。自分でも理由がわからないまま、静かに落ち込んでいることに気づく。これは何なんだろうと、自分に問いかける。だけど答えは出ない。ただ、「またか」と思うだけだ。
誰かの言葉じゃなく、無言に傷つくとき
人の言葉って、時にナイフのように刺さる。でも、それ以上に無言のほうがきついこともある。たとえば役所で書類を提出したとき、受け取った職員が一言も発さず、こちらを見もしない。事務的なのはわかっている。でも、その“透明人間”扱いされたような無視が、ずっと胸に残ることがある。私は誰かの何かに、今日も役に立ったのだろうか。その確信が持てないとき、人の無言はとても冷たく感じる。
予定のない午後に、感情が急降下する
業務が立て込んでいるときは気が張っている。だから落ち込む暇もない。でも、ぽっかり空いた午後。急に予定が飛んで時間ができると、その静けさに耐えられなくなることがある。何かをしていないと、自分が“役に立っていない人間”のような錯覚に陥るのだ。たかが数時間、ただの空き時間。でも、その時間に自分の存在価値が脅かされるように感じてしまうのは、働きすぎの証拠かもしれない。
「たいしたことない」が積み重なる
一つ一つは本当に小さなこと。書類の記載ミス、電話の聞き間違い、約束の時間に5分遅れたこと。でも、そんな「たいしたことない」ことが積もり積もって、気づけば自分に失望している。自分を責める癖が、どんどん自分を傷つける。周りは気にしていないのに、自分だけが重く受け止めてしまう。司法書士という仕事は、正確さが命。だからこそ、自分に厳しくなりすぎてしまうのかもしれない。
書類1枚、ミス1つ、それだけのはずが
ある日、不動産登記の申請で記載を1カ所だけ間違えた。それに気づいたのは提出後だった。訂正書を作成し、再提出して事なきを得たけれど、自分の中では「最悪のミス」として記憶に残ってしまった。たった1行。誰にでもある凡ミス。でも、私は帰り道で自分を責め続けた。「あのとき、ちゃんと見直していれば」「また信用を落としたかもしれない」そう考えると、もう何をやっても意味がないように思えてしまった。
事務所のドアを閉めた瞬間、ぐったりする理由
一日をなんとかやり過ごして、事務所のドアを閉めたときに出るため息。その瞬間にぐったりする理由は、「今日も気を張り続けてしまった」という疲れだ。誰もいない部屋に戻って、椅子に座ると身体も心も鉛のように重い。やるべきことは終えたのに、達成感はない。むしろ、どっと押し寄せる無力感。「自分は今日、誰かの役に立てたのか」そんな問いが頭の中で何度もリピートする。
朝のコンビニ店員の笑顔がまぶしすぎた
朝、通勤途中に立ち寄ったコンビニ。レジで対応してくれた若い女性店員の笑顔がやけにまぶしくて、目をそらしてしまった。「おはようございます!」の一言にさえ、うまく返せなかった自分。あの明るさに、自分の暗さが浮き彫りになる気がした。何気ないやりとりなのに、帰り道までその場面が頭から離れなかった。羨ましさ、情けなさ、そしてちょっとした孤独。あれが“なんでもないことで落ち込む”ということなのだと思う。