「お疲れさま」のひと言が、今日も僕をギリギリで支えている

「お疲れさま」のひと言が、今日も僕をギリギリで支えている

  1. 「がんばってるね」のひと言を待ちながら、僕は書類と格闘している
    1. 司法書士って、誰にも褒められない仕事
      1. お客さんにありがとうと言われることはあるけれど
        1. 「ありがとう」は結果への評価、「お疲れさま」は存在への共感
    2. 事務所に帰ってきても「ねぎらい」は風のように通り過ぎる
      1. 一人事務所の静けさが、かえって心に刺さる
        1. たまに聞こえる「プリンターの音」だけが、今日の仕事の証
  2. 頑張ってるアピールもできない仕事のリアル
    1. 「地味で目立たない」ことが司法書士の誇りであり、呪いでもある
      1. 正確であることは評価されない、ミスしたときだけ注目される
        1. だから余計に「よくやってるよ」と言われたい気持ちになる
  3. ふとした瞬間の「お疲れさま」に、涙腺がゆるむ夜もある
    1. コンビニの店員さんのひと言に救われることも
      1. 赤の他人のやさしさが、知り合いの沈黙より刺さる
  4. ひとりで耐える癖がついてしまった日常
    1. 「愚痴を言える誰か」がいないという孤独
      1. 事務員には言えない、友人もいない、恋人もいない
        1. 独身であることに慣れすぎて、誰かに甘える方法を忘れた
  5. もし誰かに「がんばってるね」と言ってもらえたら
    1. ただ、それだけで救われるような気がしている
      1. だから今日も、疲れたフリもせず、黙々と働いてしまう

「がんばってるね」のひと言を待ちながら、僕は書類と格闘している

司法書士の仕事は、誰かに見られることもなければ、拍手されることもない。山積みの書類に囲まれて、地味な作業を繰り返す日々。けれど、ふとした瞬間に「がんばってますね」って誰かが言ってくれたら、それだけで救われるような気がする。そんな一言を待ちながら、今日も机に向かっている。

司法書士って、誰にも褒められない仕事

僕のやっていることは、派手さとは無縁だ。登記簿を丁寧に整え、法務局に足を運ぶ。書き間違えればやり直し。正しくやって当たり前。感謝の言葉も少ない。誰かに「すごい」と言われるよりも、「そりゃ大変だね」と一緒にため息をついてくれる方が、よほど心が軽くなる。

お客さんにありがとうと言われることはあるけれど

「ありがとう」と言ってくれるお客さんもいる。でもそれは、あくまで仕事の成果に対して。自分自身が「がんばった」ことには誰も気づかない。「お疲れさま」と言ってくれる人は、もっと身近にいるべきなんじゃないかと思ってしまう。

「ありがとう」は結果への評価、「お疲れさま」は存在への共感

「ありがとう」は仕事の結果に対する言葉だ。一方、「お疲れさま」は、その人の努力や存在そのものへの共感だ。誰かが自分の疲れに気づいてくれること、その一言にどれほど救われるか。言葉ひとつで、孤独な一日が報われることもある。

事務所に帰ってきても「ねぎらい」は風のように通り過ぎる

仕事から戻ってきて、事務所で一息ついても、誰かが「今日も大変だったね」と言ってくれるわけじゃない。事務員さんも忙しそうで、僕に気を遣っている余裕なんてない。結局、自分の努力は自分でしか分からない世界なのだ。

一人事務所の静けさが、かえって心に刺さる

静かな事務所で、コーヒーを飲みながら今日の出来事を振り返る。何も音がしない空間が、逆に胸に響いてくる。こんな日は、誰かと何気ない会話を交わすだけで、少しは気が晴れるのになと思う。

たまに聞こえる「プリンターの音」だけが、今日の仕事の証

唯一の「がんばった証」は、プリンターの印刷音。それすらも、仕事の一部としてただ流れていく音でしかない。自分の存在を証明する音が、こんなにも味気ないものだなんて、20代の頃は思いもしなかった。

頑張ってるアピールもできない仕事のリアル

SNSで「がんばってるアピール」もできるような華やかな職業じゃない。黙々と、ひたすら、正確さを求められる作業。誰にも気づかれない努力を積み重ねても、それを見せることすら許されないような空気がある。

「地味で目立たない」ことが司法書士の誇りであり、呪いでもある

目立たないことは、プロとして誇るべきだと教えられてきた。たしかに、裏方に徹することができてこそ一人前なのかもしれない。でも、その結果として「存在感がない人間」になることの怖さもある。

正確であることは評価されない、ミスしたときだけ注目される

日々の正確な仕事は空気のようにスルーされ、何か一つミスをすれば責められる。この仕事の厳しさは、そういう不公平の積み重ねだ。だからこそ、「ちゃんと見てるよ」「いつもありがとう」と言ってくれる誰かが欲しい。

だから余計に「よくやってるよ」と言われたい気持ちになる

子どもの頃は「人に褒められたい」と言えば甘えていると思われた。でも大人になって、褒められることもなくなった今、「褒めてほしい」という感情は切実なものになっている。自分の存在を認めてくれる言葉が、ただただ欲しい。

ふとした瞬間の「お疲れさま」に、涙腺がゆるむ夜もある

コンビニのレジで、少し疲れた顔をしていたのかもしれない。店員さんが笑顔で「お疲れさまでした」と言ってくれた。その瞬間、胸に込み上げるものがあった。ほんの一言だけで、人はこんなにも救われるのかと驚いた。

コンビニの店員さんのひと言に救われることも

日々の中で、最もやさしさを感じる瞬間が、意外にも赤の他人からだったりする。接客マニュアルに沿ったひと言だとしても、その声に救われる夜があるのだ。誰かの声が、自分の孤独を溶かしてくれる。

赤の他人のやさしさが、知り合いの沈黙より刺さる

知っている人の無関心より、知らない人のやさしさの方が、なぜか心に染みることがある。無言の時間が長くなった知人との距離感よりも、他人からかけられたひと言の方が、心の奥に届くという皮肉。

ひとりで耐える癖がついてしまった日常

「大丈夫です」が口癖になり、「愚痴を言う相手」がいなくなった。自分で抱えて、自分で処理して、また次の日も同じように仕事をこなす。気がつけば、誰にも頼らずに生きることが当たり前になっていた。

「愚痴を言える誰か」がいないという孤独

仕事の不満を誰かにこぼせたら、もう少し気が楽なのにと思う。でも、誰に言えばいいのか分からない。事務員に気を使い、家族もいない、友人とも疎遠。仕事に疲れても、心の逃げ場がない。

事務員には言えない、友人もいない、恋人もいない

事務員さんには余計な心配をかけたくない。友人とは疎遠になりすぎて、もう何から話していいか分からない。恋人? そんな気配は一切ない。笑って話せる誰かが、そばにいるだけで全然違うのにな。

独身であることに慣れすぎて、誰かに甘える方法を忘れた

一人で暮らすことに慣れすぎた結果、誰かに寄りかかることが難しくなってしまった。愚痴を言えば「そんなに大変ならやめれば」と言われそうで怖い。自分の弱音を受け止めてくれる存在が、今はただ欲しい。

もし誰かに「がんばってるね」と言ってもらえたら

たとえひと言でも、誰かがそう言ってくれたら、明日も頑張れるような気がする。見返りなんていらない。ただ、認められたい。ひとりの司法書士として、生きてる意味を、そっと肯定してくれる誰かがいれば、それでいい。

ただ、それだけで救われるような気がしている

人は意外と、そんな小さなことで立ち直れる。「お疲れさま」と言ってくれる人がいるだけで、少し泣けて、そして笑える日がくる。そう思いながら、今日も書類の山と向き合っている。

だから今日も、疲れたフリもせず、黙々と働いてしまう

結局、誰かに期待することもあきらめて、自分の中で折り合いをつけている。疲れた顔も見せず、文句も言わず、「ちゃんとした大人」としての役割を演じ続ける。ほんとは、誰かのひと言が欲しいのに。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。