朝霧に消えた印

朝霧に消えた印

朝霧に消えた印

朝の始まりはいつも通りだった

午前8時半。外はまだ薄く霧が残っており、近くの山並みはぼんやりとかすんでいた。そんな朝でも、事務所の電気ポットは規則正しく湯を沸かし、サトウさんのタイピング音が静寂にリズムを刻む。いつものように椅子に座った私は、左手でお決まりの書類ファイルを引き寄せた。

「さて、今日も登記申請か……」などと呟きながら、引き出しを開けたその瞬間、いつもそこにあるはずの“職印”がないことに気づいた。

机の上にあるべきものがなかった

「あれ……?」私は引き出しの中をまさぐりながら、額にうっすら汗を浮かべた。昨日の夕方、最後に押印した登記書類はたしかに職印で処理した。つまり、その後どこかにしまったか、しまっていないか、だ。

サトウさんに目を向けると、彼女はモニターから一瞬だけ視線をこちらにやり、無言でコーヒーを一口すするだけだった。その目が言っている。「またですか?」と。

サトウさんの冷静な観察

「シンドウさん、昨日の最終受付は午後4時20分の会社謄本取得で、最後の押印は4時35分です。ファイルはこの青の分厚いやつにありますよね。印を使ったのはそのときが最後だと思います」

彼女は静かに立ち上がると、私のデスク周辺を目でなぞりながら、やや無愛想に言った。「それ、多分どこか別の書類と一緒に混ざってますよ」まるでシャーロックホームズのような洞察力だ。

最後に職印を見たのは誰か

私はあらゆる書類棚を開け、封筒の束を引っかき回し、段ボールの陰まで覗き込んだ。思い当たる来客者の顔を脳内で一人ずつスライドショーのように再生していく。が、職印に触れそうな人物は見当たらない。

「鍵付き引き出しじゃないんですか?」とサトウさん。「ええ、まあ……鍵がどこか行方不明で」言い訳にもならない返答に、彼女はわずかに溜め息を吐いた。

管理簿の謎の空欄

サトウさんが電子ファイルの使用履歴をチェックしている間、私は旧式の“印鑑管理簿”を開いた。そこには使用者と日時を記録する欄がある。だが、昨日の欄がぽっかり空白になっていた。

「この欄、サイン抜けてますね」とサトウさん。「あれ、私だったかもしれません」と私は言った。だが、その“かもしれない”が通用しないのが、この業界なのだ。

不審な来客記録と1本の電話

そのとき、サトウさんが不意に言った。「昨日の午後3時半、身元不明の来訪者がありましたよ。用件は“相談”ってだけ記録されてます」その人が帰ったあと、ちょうど謄本取得依頼が入り、印を使ったのはその直後だ。

そこへ一本の電話が鳴った。出たサトウさんが一言二言受け答えし、受話器を置くと静かに私を見る。「昨日の来訪者が、封筒を置き忘れたって言ってきました。“重そうなものが入ってた”そうです」

「誰かが意図的に消した」

その封筒を取り出して中を調べると、確かに書類の山の中に重さのある“何か”が混ざっていた。赤い布袋に入ったままの、それは――職印だった。サトウさんが言った。「偶然、とは思えないですね」

私は無言で頷いた。もしあの封筒が持ち去られていたら、誰かが私の印鑑を使って虚偽登記を企てる可能性もあったのだ。

封筒に残された朱肉の痕跡

よく見ると封筒の内側には、かすかに朱肉の染みが残っていた。「職印が濡れたまま放り込まれた…?」私はそう呟き、ぞくりとした。封筒の宛名はなぜか私の名前ではなく、「司法書士事務所様」とだけ書かれていた。

「ルパン三世が置き土産に残す名刺みたいですね」と、私は冗談を言ったつもりだったが、サトウさんは「ルパンのほうがまだ誠意あります」と切り捨てた。

シンドウのうっかりが突破口に

ふと、私は思い出した。昨日の夕方、別の申請書類に捺印したあと、書類の山をまとめて封筒に入れ、手渡しするつもりだったことを。「やれやれ、、、そういうことか」私は頭をかいた。

つまり、私自身が職印をその封筒に一緒に入れてしまい、それがそのまま返却されずに持ち帰られたのだ。まさに“うっかり”が呼んだ自作自演のミステリーである。

犯人はそこにいた

「犯人、って言うと語弊がありますけどね」サトウさんが皮肉っぽく言う。「つまり、シンドウさんが自分で自分に仕掛けたトラップということですね」彼女の目に笑いはなかった。

「で、今後の再発防止策は?」と問われた私は、引き出しに手を伸ばし、ようやく鍵を見つける。「これからはちゃんと施錠するさ……多分」答えになってない自覚はあった。

真実は鍵のかかった机の中に

結局、何事も起こらなかったかのように日常が戻る。だが、サトウさんは机の引き出しに鍵をかけ、私に鍵のコピーを渡してくれた。「持っていてください。なくさないで」

「はい」と返しながら、私は密かに心配していた。なくすんじゃないか、と。

職印はなぜ動いたのか

全ての発端は、たったひとつの不注意だった。しかし、それは私たち司法書士にとって致命的なミスを招きかねない。職印は、単なる道具ではない。それは信用そのものなのだ。

今回は運よく帰ってきたが、次はないと思え。私は自分に言い聞かせる。

意外な動機とささやかな罪

後日、その来訪者が「中身を見て驚いて連絡をためらっていた」と謝罪してきた。故意ではなかったにせよ、重大な事案となる可能性があったわけだ。

罪にはならないが、胸に小さなトゲのような後味を残したのは間違いない。

解決後の無言とコーヒーの湯気

事務所には再び平穏が戻ってきた。サトウさんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私はぼんやりと湯気を眺めていた。何も起こらなかった一日――それが、いかにありがたいことかをかみしめながら。

だが、ほんの一瞬でも気を抜けば、霧の向こうに何かが待っている。そんな気もしていた。

そしてまた、いつもの日常へ戻る

「じゃ、午後の法務局行ってきます」サトウさんがさっさと立ち上がり、バッグを持って玄関に向かう。私は慌てて朱肉と書類を手にし、「あ、ちょっと待って!職印は……」と言いかけて、胸ポケットに入っていることに気づいた。

「やれやれ、、、」私は一人ごちて、椅子に沈み込んだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓