スーツを着るたび、自分が薄れていく気がした朝

スーツを着るたび、自分が薄れていく気がした朝

毎朝の「儀式」が心を削っていく

毎朝、寝ぼけた頭のままワイシャツに袖を通し、しわの伸びたスーツを羽織る。その行為自体が一つの儀式になっている。だが、そのルーティンの中に、自分自身の感情はほとんど含まれていない。ただの作業だ。スーツは“今日も仕事をする人”を演じるための衣装のようで、着るたびに「またか」とため息が出る。そんな繰り返しに、ふと我に返ると、どんどん自分が薄くなっていくような気さえしてくる。

スーツに袖を通す、そのたびに湧く違和感

なぜこんなにもスーツに違和感を覚えるようになったのか。若いころは“プロっぽく見える”ことが嬉しかった。周囲の大人たちに近づいたような気がして、誇らしかった。でも今は違う。袖を通すたびに、何かが合わない感覚がこみ上げてくる。まるで他人の服を借りているような、不自然さ。もしかしたら、今の自分とこの格好が、本当はもう合っていないのかもしれない。

ネクタイを締めながら心に浮かぶ「今日もか」

ネクタイを締める手が、いつからか重たく感じるようになった。鏡の中の自分は一見きちんとしている。だが、その内側はどうだろう。まるで心が後ろを向いたまま、体だけが前に進んでいるような、そんな変な感覚。「今日もか」とぼそりとつぶやいてしまうのが、最近の朝の定番になってしまった。気づかないふりをしていたけれど、やっぱり限界は近いのかもしれない。

制服のようで、個性を消していく布の重み

スーツはある意味、社会の制服だ。司法書士という肩書きにはふさわしい格好だとわかってはいる。でも、その布が持つ重みは、責任や信頼といった建前だけではなく、自分自身の個性や気持ちを抑え込んでしまう力も含んでいるように感じてしまう。今日の自分が何を考え、どうしたいのか、そんな些細なことはネクタイの裏に隠れて、忘れられてしまう。

他人から見た「ちゃんとしてる人」像とのズレ

お客様から見れば、スーツをきちんと着こなしている司法書士は「信頼できる大人」に見えるかもしれない。そう見せることも仕事のうちだというのは、頭では理解している。だが、心の中ではそのイメージに応えようとするほど、自分とのズレが生まれていく。信頼されているはずなのに、自分自身がどんどん遠くなるような感覚に襲われる。

真面目に見えても、内面は擦り切れている

外見では「真面目そう」「きちんとしている」と思われがちだが、実際には心の中ではぐちゃぐちゃだったりする。顧客の前では平静を装っていても、夜に一人になるとふと涙が出そうになるときもある。見た目が整っていれば中身もそうだと判断されがちだが、人はそんなに単純じゃない。表に出せない分だけ、内側はどんどん擦り切れていく。

「ちゃんとした格好=ちゃんとした人」ではない

「スーツを着てるからきっとしっかりしてる人だろう」──そんな期待を向けられることは、時に重荷になる。見た目で判断されることで、弱音を吐く機会を失ってしまうこともある。誰かの期待に応えることばかりに気を取られていると、自分の本音がどこにあるのかさえ、わからなくなってしまうのだ。

司法書士という職業とスーツの「呪い」

司法書士という仕事において、見た目の信頼感は確かに重要だ。だがそれが一種の“呪い”のように感じる瞬間がある。特に地方では、堅苦しさや格式が今でも重視されがちで、ラフなスタイルが許されない空気が漂っている。クライアントとの関係を円滑に保つためにもスーツは欠かせない。けれど、それは同時に「自分らしさを犠牲にする」選択でもあるのだ。

信頼感の象徴としてのスーツに縛られて

スーツを着ているだけで安心してもらえるという現実は確かにある。初対面の相談者にとっては、見た目のきちんさが安心材料になるのは間違いない。しかし、それが毎日となると、だんだんと「自分は誰のためにこの格好をしているのか?」という疑問が湧いてくる。信頼されるのは嬉しい。でも、それが“型”に閉じ込める枷になるとしたら、皮肉な話だ。

「信頼される格好」である前に、「自分らしさ」が消える

私は司法書士である前に、一人の人間だ。けれど、スーツを着ているとその感覚が薄れていく。人としての感情や思考よりも、役割や立場が優先される。書類の山に囲まれて、正確性を求められる毎日。服装すら自分の意思で選べないのかと思うと、どうしようもない閉塞感に襲われることがある。

カジュアルにできない、地方の閉塞感

東京のような都市部なら、カジュアルな司法書士も珍しくないかもしれない。でも、地方ではそうはいかない。客層の年齢も高めで、「ちゃんとしてない人」には依頼を出さないという意識が根強く残っている。地元に根を張ってやっていくには、どうしても“堅さ”が必要だ。それがわかっているからこそ、なおさら自分の中の自由が失われていく気がする。

誰のためのスーツか、ふと立ち止まって考える

今日もいつものようにネクタイを締めながら、ふと考えた。「自分は誰のためにこの格好をしているのだろう?」顧客のため?社会のため?信用のため?そうかもしれない。でも、自分自身が納得していないなら、そのスーツはただの殻に過ぎない。無理に守り続けることで、かえって大事な何かを壊してしまっているのではないか。

「お客様のため」と思いつつ、自分を見失う

「お客様の安心のために」と自分に言い聞かせながらスーツを着る。けれど、それが毎日の積み重ねになると、自分が何を感じていたのか、何を望んでいたのかさえ分からなくなってくる。自己犠牲を続けることで生まれる信頼関係もあるが、その犠牲が度を越せば、心が空っぽになってしまう。

形式より中身を重視される日は来るのか

本当に大切なのは服装よりも中身──そう言い切れる社会がいつか来るのだろうか。スーツを着ていなくても信頼されるような人間関係、実力で評価されるような風土。そんな未来を夢見つつ、現実にはネクタイを締め続けるしかない自分がいる。だけど、心の奥底で小さな変化を望んでいるのも、きっと本音なのだ。

心が軽くなる日もある、でもそれは「スーツを脱いだ時」

すべてが辛いわけじゃない。ほんの少しだけ、自分に戻れる時間もある。事務所に一人きりになる午後や、帰宅してネクタイを外した瞬間。スーツを脱ぐことで、ようやく“司法書士”ではない“自分”に戻れる。皮肉だけど、それが一番心が軽くなる瞬間なのだ。

事務所に誰もいない昼下がりに、ふと一息

たまに訪れる静かな昼下がり。事務員も外出していて、電話も鳴らず、書類の山も少し片付いている。そんな時、そっとネクタイをゆるめて、コーヒーを一口。誰に見せるわけでもない顔で、ただ窓の外を眺める。そんな何でもない時間が、心をふと解きほぐしてくれる。

ネクタイを緩めた瞬間に思い出す、自分の輪郭

ネクタイの締め付けをゆるめると、なぜか呼吸が深くなる。同時に、朝の慌ただしさに押し込めていた感情がふわりと浮かび上がってくる。イライラ、虚しさ、でもほんの少しの希望も混じっている。そうやって自分の輪郭を少しずつ取り戻していく。

「スーツを着ない働き方」なんて無理だと知っているけれど

スーツを着ない働き方なんて、現実的には難しいと分かっている。司法書士としての信頼、地域での立ち位置、顧客の目。いろんなものが絡み合っている。それでも、せめて「なぜ着るのか」を意識できるだけで、少しだけ気持ちは変わる気がしている。明日もまたスーツを着るけれど、せめて自分を忘れないようにしたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。