調停室の静かな毒

調停室の静かな毒

朝一番の調停室

その朝、調停室の空気は妙に重たかった。冷房が効いているはずなのに、額にじっとりと汗が滲む。机の上には分厚いファイルと、朱肉の蓋がずれたままの印鑑ケースが置かれていた。

相手方は地元の建設会社の部長。こちらは依頼人の女性とその弁護士。双方の表情に笑顔はなく、壁に掛けられた「和を以て貴しとなす」の額縁がなんとも空々しく見えた。

僕は司法書士として同席し、主に不動産登記の処理のための書類をチェックしていた。けれど、それ以上に気になったのは――この部屋の妙な沈黙だった。

依頼人は無口な男だった

調停の中で、依頼人の元夫は一言も発しなかった。弁護士の指示に従って頷くだけで、まるで人形のようだった。だが、時折彼の目が、こちらの依頼人――元妻を刺すように睨んでいるのが分かった。

言葉よりも強い感情がそこにあった。恨み?それとも、何かもっと別の感情?僕はその目線に不安を感じながらも、淡々と調書を確認していった。

「なんか、この人変ですね」サトウさんが、パソコンの画面から顔を上げずにポツリと言った。その一言で、僕の背筋がスッと冷えた。

サトウさんの冷ややかな推察

「調書、よく読んでみてください。二ページ目、句点の位置が不自然です」サトウさんの指摘に、僕は慌てて書類をめくる。確かに、ある文が妙にぶつ切りになっていた。

通常なら「和解に至る」という文章が、「和解に。至る」となっている。校正ミスかと思ったが、彼女は首を振った。

「これは意図的に書かれてます。つまり、和解に“至っていない”と読み替えられる可能性があるってこと」

書類の裏に潜む違和感

僕は朱肉の蓋を持ち上げながら、ふとその位置に目を留めた。印鑑ケースが開いた状態で置かれているのは不自然だった。誰かが封を開けたままにしていた?

さらに、申立書の裏側に小さな文字でメモが書かれていた。「五階 給湯室に 注意」と。誰が、何のために?

一気に胃がきゅっと縮まった。これはただの調停じゃない。何か、もっと陰湿なものが動いている――。

うっかりハンコの位置に異変

登記委任状に押された印影が、少しずれていた。サトウさんなら見逃さない。彼女は画面を拡大して見せてきた。

「これ、誰かが上から押し直してる。下に薄くもう一つ印影があるでしょ。これ、別人の可能性ありますよ」

やれやれ、、、またか。ハンコひとつでここまで騒ぎになるのも、司法書士の悲しい宿命だ。

調停調書の謎の一文

調書にある一文が、弁護士による追加書き込みだったことが判明した。「和解条項は、訴外Aの合意を前提とする」……訴外Aとは誰だ?

僕は資料をひっくり返して調停の対象となった不動産の所有者を再確認した。すると、見慣れぬ名前が一つ、過去の登記簿にあった。

「あれ?こいつ、調停に来てないじゃん」まるでサザエさんのマスオさんがいきなり大家になってたかのような違和感。これは重大な見落としだ。

休憩室で交わされた密談

昼の休憩時間、僕はふらっと給湯室へ足を運んだ。すると、扉の向こうから微かに声が聞こえた。「…だから、バレる前に動かすしかないんだよ」

誰だ?僕は物音を立てないよう近づいた。ガラス越しに見えたのは――部長と、調停委員の一人。まさか、調停が仕組まれていた?

「これは…一応録音しておいた方がいいですかね」サトウさんが、無表情でレコーダーを差し出してきた。抜かりがない。

コーヒーと毒のカフェオレ

さらに不気味だったのは、その給湯室に置かれていたカフェオレ。封が切られていないはずのパックに、針で刺したような小さな穴があった。

「毒じゃないとしても、何か混ぜられたかも。部長が飲んでたの、これです」

完全に探偵漫画の世界だ。だが現実はもっとドロドロしている。僕はカフェオレを紙袋に入れ、そっと冷蔵庫に戻した。

偽装された和解

午後の調停が再開されると、部長が突然倒れた。救急車が呼ばれ、会場は一時騒然となった。誰かが動いた。それも、調停が「成立」する直前に。

僕はすぐに朝の資料をかき集め、調停委員に申し入れをした。「この和解、無効の可能性があります」

調書の不備、二重の印影、訴外の不在――あまりにもおかしい点が多すぎた。

やれやれ、、、これは面倒なやつだ

一連の流れを思い返して、僕は静かにため息をついた。やれやれ、、、この歳でこのスリルは正直、胃にくる。

だが、司法書士として「目を逸らしてはいけないもの」がある。だから僕は動いた。

その動きが、思わぬ形で真実を引き寄せることになる。

元野球部のひらめきが炸裂

証拠を整理しているとき、ふと浮かんだのは高校時代の試合だった。サインが偽装されてると見抜いたあの瞬間。似ている。直感が騒いだ。

「サトウさん、この書類……“代筆”ですね」

彼女は頷いた。「おそらく、元夫が部長の印鑑を使って提出した。調停を装って資産を奪う計画だったんです」

サトウさんの一言がすべてを変えた

「これ、午前中の話じゃないですよね?」サトウさんのその一言で、全体の流れが逆転した。時間のズレが、決定的な証拠になったのだ。

提出書類のタイムスタンプが、会議の前に記録されていた。つまり誰かが意図的に、先に「合意済み」の体裁を整えていた。

「詰めが甘いですね、悪党って」サトウさんは腕を組みながら、ぼそっと言った。

証拠はあの一枚の封筒

決定打は、朝に拾った封筒だった。中には、偽造された登記書類のコピーが収められていた。これがなければ、すべては闇に葬られていただろう。

警察の到着とともに、関係者は次々と連行されていった。あの部長も、既に回復し事情聴取を受けているという。

僕は封筒を静かに見つめながら、改めて「紙の重さ」を感じた。

真相の先にあるもの

依頼人の女性は、静かに涙を流していた。「あの人に、こんなことまでされるなんて……」

けれど、真実は明らかになった。彼女のこれからの生活に、少しでも穏やかさが戻ることを祈るしかない。

「…ところで、報酬って出ますかね?」僕の小声に、サトウさんは無表情で「実費は自腹ですよ」と言い放った。

サトウさんの塩対応と小さな笑み

だが、彼女はそのあと、ほんの少しだけ笑ったような気がした。気のせいだろうか。いや、気のせいじゃない。たぶん。

「司法書士って、探偵みたいですね」

その言葉に、僕はちょっとだけ誇らしい気分になった。

今日も調停室からこんにちは

書類を片付け、部屋を後にする。日差しが強い。蝉がうるさい。現実は一向に涼しくならない。

けれど、事件が解決したことだけが、今日の救いだ。

僕は心の中でつぶやいた。「今日も調停室からこんにちは……って、まったくこんにちはじゃなかったけどな」

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓