婚姻届の行方

婚姻届の行方

午前十時の依頼人

あの日も変わらず、事務所にはコーヒーの匂いとプリンターの低い唸りが漂っていた。そこへ静かに入ってきたのは、髪をひとつにまとめた女性だった。細身の体に明らかな疲れがにじみ出ていたが、その目には強い意志が宿っていた。

「婚姻届が…勝手に提出されていたんです」彼女の一言に、サトウさんの手がピタリと止まる。さすがにこれには僕も目を見開いた。そんな話、漫画でしか聞いたことがない。

妙に落ち着かない雰囲気

依頼人の話を聞きながら、僕は机の上に散らばった登記事項証明書をそっと脇に寄せた。表情は静かでも、手はずっと膝の上で強く握られていた。心の内側はきっと、海のように荒れているのだろう。

「役所では受理されたことになっていて…でも私は、出していないんです」言葉の端々が震えている。作り話には見えなかった。つまりこれは、立派な事件の匂いがする。

婚姻届の提出先に現れた影

「提出されたのは〇〇市役所の市民課」と彼女は言った。だが彼女の住民票も戸籍も、そこにはなかったはずだ。婚姻届だけが“なぜか”受理されている。不自然にもほどがある。

まるで、ルパンが誰にも気づかれず金庫をすり替えるような巧妙さだ。いや、これはそれ以上かもしれない。戸籍に傷をつける手口は、我々司法書士でも簡単には解けない。

彼女が語った話

「一度だけ、婚約していた男性がいました。別れましたが…まさかこんなことになるなんて」彼女の声には怒りよりも、絶望に近い諦めが混ざっていた。昔の男が、彼女の名で婚姻届を出したのか?

サトウさんが小さく舌打ちをしたのが聞こえた。たぶん、仕事が増えたからだ。あるいは、こんな話が現実に起こるという事実が、彼女の現実主義を揺さぶったのかもしれない。

消えた元夫の所在

彼の名前は市役所に記載されていた。だが、調査すると数か月前から住民票は転々としており、今は消息不明。表向きはフリーランス、実態は誰にもわからない。影のような存在だ。

怪盗キッドが煙玉を残して消えるように、男は記録の隙間をぬって逃げ続けていた。名前だけが実体を持ち、現実の彼は幽霊のように姿を見せなかった。

婚姻届の筆跡が違う

「これ、私の字じゃないです」市役所で彼女が見せられた届出の控え。確かに違う。だが、なぜか印鑑は合っているという。これはつまり、印影が盗まれた可能性が高い。

「印鑑証明は?」と問うと、彼女は絶句した。以前貸したことがあったらしい。その瞬間、サトウさんがため息をつきながら低く言った。「だから言ったでしょ、男は全員信じちゃダメって」

登記と戸籍の違和感

結婚が成立している前提で、相手名義の財産登記が動いていた。まさかと思ったが、その不動産の売却登記がすでに動き出しているのを確認し、背筋が寒くなった。

登記簿は嘘をつかない。しかし、そこに至る過程は、人の手で簡単にゆがめられる。登記は結果であり、過程の操作に誰も気づけなければ、真実は覆い隠されてしまう。

記録上の矛盾

婚姻届が出された日付と、不動産の売買契約の日付がぴたりと一致していた。タイミングを見計らっていたのだ。これは計画的な犯行と見て間違いない。

さらに、不動産の買主もまた、どこかで見たことのある名前だった。地元の地面師グループの一人だった。僕はその名前を見た瞬間、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。

サトウさんの推理

「あの男、婚姻届を足掛かりに登記の正当性を作ろうとしてたわけですね」サトウさんは冷静に言った。「婚姻関係があれば、不動産を処分する口実も作れる」

「書類で人を殺せる時代ですから」その言葉が冗談に聞こえなかった。何より彼女の言葉は、僕のよりも的を射ていることが多い。やれやれ、、、まったく僕の出番はどこにあるのか。

塩対応の鋭い一言

「あなたも将来気をつけた方がいいですよ、シンドウ先生。婚姻届、勝手に出される価値あるんですか?」とサトウさんが言った。僕は苦笑しながら「まず誰かに出してもらえるかが問題だよ」と返す。

彼女は眉ひとつ動かさずに書類をまとめていた。まるで、サザエさんのカツオを無言で睨むフネのようだった。塩対応というより、もはや氷対応である。

役所で見つけた真実

婚姻届の受付簿に、見慣れた筆跡を見つけた。それは市民課の非常勤職員のものだった。内部で協力者がいたのだ。いわば怪盗に加担する内通者である。

事情を聴くと、男に金で雇われていたという。書類に不備があったにも関わらず、目をつぶって受理したのだ。小さな偽装が、大きな事件を生み出していた。

婚姻届の日付に隠された嘘

提出日が休日になっていた。それは実際には受付できない日だ。つまり、彼は事前に記入し、後日窓口で受け取らせた。そうすれば、証人欄すら偽造できる。

その日付に合わせて、売買契約を偽装し、彼女の名義を正当化していた。もはや婚姻届は、愛の証ではなく、犯罪の道具になっていたのだ。

戸籍課の男の秘密

戸籍係として働いていた男は、数年前に懲戒処分歴があった。それでも再雇用された背景には、市長の親戚という忖度があった。まさかその緩みが、こんな結果を生むとは誰も思っていなかった。

だが現実はいつもフィクションを超えてくる。紙一枚で、人の人生は歪められる。法は整っていても、人の欲望には勝てないのかもしれない。

すべてが繋がったとき

全ての書類を証拠としてまとめ、警察へと引き継いだ。彼女の婚姻は無効となり、不動産登記も差し止められた。すんでのところで、彼女の人生は守られた。

「本当にありがとうございました」そう言って帰っていく背中に、少しだけ光が差していた。たぶん彼女の涙は、これでやっと本当の意味を持つことができたのだろう。

やれやれ、、、。こんな日に限って、登記申請の締切が迫っている。僕は急いでデータを開き、サトウさんに小さく頭を下げた。「ちょっと、これ先にやってもらってもいいかな?」その瞬間の彼女の目は、探偵漫画のボスキャラよりも冷たかった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓