一人分のカレーが作れない夜に思うこと ――司法書士という仕事の重たさと、冷蔵庫の静けさと

一人分のカレーが作れない夜に思うこと ――司法書士という仕事の重たさと、冷蔵庫の静けさと

カレーすら作れない夜に、ふと考えること

夜の9時を過ぎて、ふと「カレーが食べたいな」と思う。冷蔵庫には玉ねぎがひとつ、じゃがいももある。ルウも残ってる。でも、手が止まる。一人分だけ作るのが面倒で、レトルトに手を伸ばすでもなく、気づけば冷たい麦茶を飲んで終わる。「食べる気はあるのに、作る気はない」──この矛盾と付き合うのが、ここ数年の課題になってきた。司法書士という仕事柄、決まった時間に帰れない。誰かが「おなかすいたね」と言ってくれることもない。だからこそ、カレーひと鍋作るだけで、自分の生活の空虚さに気づかされるのだ。

誰かと食べる前提でしか料理は成り立たないのか

料理って、つくづく「誰かがいて成り立つもの」なんだなと思う。学生の頃は「自炊ってエライ」と言われたけど、それは一人で作っても誰かに話す相手がいたから続けられたのだ。今は違う。ただ作って、食べて、洗って、終わり。たったそれだけの行為が、信じられないほど重たい。せめて「今夜のカレー、おいしかったよ」と言ってくれる人がいたら──いや、それを言わせたいだけなのかもしれないけれど。

レシピはいつも「2〜3人前」から始まる

本屋で料理本をめくっても、「1人前レシピ」というのはなかなか見かけない。大抵は「2〜3人分」。余ったら保存、冷凍、翌日に回せばいい──そんな前提がしんどい。自分が食べるだけなのに、なぜこんなにも「余ること」への配慮を求められるのか。しかも保存容器を出して、洗って、それをまたチンして食べる頃には味も気持ちも冷めてしまっている。効率じゃない。たぶん、「一人である」ということが、食事の形式を壊してくるのだ。

作ることと生きることは似ているけれど

料理って、生きることと似ている。手を動かして、火を入れて、時間をかけて、完成させる。でも、誰かと一緒に暮らしていないと、そのプロセスを「生活」として感じにくい。一人で淡々とやると、それはただの作業になる。今日もまた、生きてるだけで手一杯なのに、「料理くらいして当たり前」と自分を責めるのは、もうやめたい。でもやっぱり、作れたら少しだけ前向きになれた気がするのも確かで──それがまた悔しい。

一人暮らし司法書士、冷蔵庫と鍋と沈黙

事務所を閉めて帰宅し、ドアを開ける。誰もいない。テレビもつけずに冷蔵庫を開けると、常備菜らしいものはなく、なんとなく買った野菜と調味料だけが沈黙している。仕事では依頼者の家族関係や不動産の問題に深く踏み込むけれど、自分の生活はずいぶんと空っぽだ。鍋を出すか、出さないか。それがその夜の“選択”だ。大げさだけど、本当にそれくらいの重さを感じている。

カレーの残りと明日の予定のバランス

明日、午前中に法務局で面倒なやりとりがある。午後は相続の立ち会いで、気も使う。その予定を思い浮かべると、今日カレーを作って、明日また温める気力があるか?と自問してしまう。「明日も食べる」と思うと、味付けに慎重になるし、タッパーも用意しないといけない。食事一つにしても、「今の自分」と「未来の自分」のバランスを取らないと、動けないのが悲しい。これが“生きる”ってことなのかもしれないけど。

「もったいない」が日々の足かせになる

「せっかく材料があるのに」と思う。でも、その「もったいない」に縛られて、疲れている自分がいる。本当は、休んでもいいのだ。レトルトでもいい。けど、それを「甘え」として処理してしまう自分がいる限り、休むことすら許されない。カレーを作らなかった日の夜、罪悪感のような気持ちを抱えて寝るのは、正直しんどい。誰も責めてないのに、自分が一番自分を責めている気がする。

忙しすぎて「ちゃんと食べる」が遠くなる

カレーが作れない理由は、孤独だけじゃない。単純に、時間がないのだ。昼はコンビニおにぎり2つ。夕方までノンストップで仕事して、事務員が帰ったあとは一人で伝票の整理。お客さんに電話をかけることもある。そうしてるうちに、もう21時を過ぎている。そこから野菜を切って煮込む気力なんて、残っていない。

登記と電話に追われて、気づけば21時

不動産登記の案件が重なると、確認と連絡だけで一日が終わる。司法書士の仕事は「見えない作業」が多いから、時間の消費に自分で気づきにくい。気づけば夜。スーパーは閉まっているし、コンビニのカレーはなんとなく気が進まない。自炊してる人が偉いんじゃなくて、時間に余裕がある人が羨ましいだけなんだ──最近、そう思うようになった。

夕食というイベントが後回しになる日常

「夕食を食べる」というのは、他人と一緒にいることで成り立つ儀式のような気がする。一人だと、ただの「摂取行為」になってしまう。仕事が優先、食事は後回し──それが日常になっている今、たまに食卓に座ること自体が非日常になっている。食事って本来、人生の中でもっと丁寧に扱うべきことだったはずなのに。

コンビニの棚の前で、やりきれなさに負ける

冷蔵ケースの前に立って、「今日は何にしようか」と考える。けど、どれも違う気がして、何も選べずに立ち尽くすことがある。カレーはある。でも、温めてまで食べたいか?と問う自分がいる。あの瞬間、「あぁ、自分って今、誰のために生きてるんだろう」と考えてしまう。それでもレジに並び、袋を持って帰る自分が、少しだけ虚しい。

「一人分でいいんだよ」というレシピが欲しい

もうちょっとだけ、自分に優しくなれるレシピがあればいいのに。1人分だけ、簡単で、でもちゃんと満足できる料理。そんな本を見つけたら、今度こそ買おうと思う。でも、たいていのレシピ本は“ちゃんと暮らしてる人”向けで、今の自分にはちょっと眩しい。だから結局、作らずにまた次の日を迎える。繰り返しが、ちょっとだけ寂しい。

大鍋のカレーが語る“誰かの不在”

鍋にカレーが残っている。それは“誰か”がいてくれることを前提とした量だった。過去に、誰かと暮らしていた時期もあった。残りを取り分けたり、味の感想を言い合ったり。今は、そういう会話がない。食べる量を測ることより、誰と食べるかの方が、よっぽど料理の根幹だったのだと思う。

作らないことに慣れた自分が、ちょっと寂しい

作らない選択が、日常になってしまった。それはある意味で「自分をあきらめている」ことなのかもしれない。でも、そんな自分を全否定したくはない。忙しい中で、何かを諦めてやり過ごすのは、生き抜くための知恵でもある。とはいえ──たまには自分のためだけのカレーを作ってやりたい、と思う夜がある。それだけでも、救いなのかもしれない。

それでも食べることは、自分を戻すための儀式

カレーを作れなかった夜。それでも、翌日の昼には少し元気を取り戻していたりする。食べるという行為は、面倒だけれど、心のバランスを取り戻すための「儀式」なのだと感じる。誰かのためじゃなく、自分のためだけに作った一皿。大げさに聞こえるかもしれないけれど、それが“自分を肯定する”小さな方法になっている。

小鍋で煮たカレーと、ちょっとした満足感

先日、思い切って小鍋に一人分のカレーを作った。野菜も切らずにレンジで下ごしらえ、肉も少なめ。それでも、食べ終わったあとに「今日はちゃんと生きたな」と思えた。その満足感は、外で食べるカレーでは得られない種類のものだった。手間はかかるけど、「ちゃんと自分のために作った」という事実が、何よりも自分を支えてくれる。

美味しくなくても、自分で作ったことが大事

味はまあまあだった。でもそれでいい。誰かに出すわけじゃないし、誰も見ていない。それでも、「作った」という事実は、自分の存在証明になる。忙しくても、誰もいなくても、自分のために火を入れるという行為。それがどれだけ尊いかを、改めて思い知った気がする。次は、もう少し野菜を増やしてみようかな。

誰にも見せない生活に、意味を持たせるために

一人分のカレーは、地味で、誰にも気づかれない。でも、それを作る自分がいるということは、この生活を、少しだけ自分で肯定できるということだと思う。司法書士の仕事は孤独だ。けれど、その合間に一杯のカレーを作れる自分を、もう少し大事にしてもいいのかもしれない。そんな夜が、また来たらいいと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。