登記完了できない朝

登記完了できない朝

登記申請当日の異変

朝の事務所に響く不穏な沈黙

その朝、事務所にはいつもより早く着いた。雨上がりの空気がまだ湿っていて、入り口のガラス戸が少し曇っている。コーヒーを淹れながらデスクに目をやると、何かが足りない気がした。

デスクの右端、いつもそこにあるべきもの。小さな木箱に入った大切な道具。それが、まるで最初から存在していなかったかのように、綺麗に消えていた。

「あれ?」と小さくつぶやいた声が、誰もいない室内に響いた。

机の上から消えた職印

朱肉の残り香だけが微かに鼻をかすめる。だが、肝心の“あれ”がない。職印。司法書士たる証であり、登記申請に絶対必要なあの印鑑が、影も形もない。

昨日確かに押印した登記書類の感触が、指先にまだ残っている。それなのに、今、そこにあるべきものが、ない。

慌てて引き出し、鞄、書庫を探すも見つからない。冷や汗が背中を伝っていく。

シンドウの動揺とサトウの冷静

「落とした?なくした?」

「おはようございます」サトウさんが淡々と入室してきた。こちらの焦りをよそに、いつものようにタイムカードを押す。

「サトウさん、印が、ないんだよ。あの、職印がさ…」と声が裏返る。すると彼女は一度まばたきをした後、静かに言った。

「落としたか、誰かが持ち出したか。とりあえず、探します」

サトウの即席チェックリスト

彼女は白紙のA4用紙を取り出し、さっさとチェックリストを書き始めた。「昨日の最終使用時間」「最後に職印を見た場所」「事務所の施錠確認」「来客の記録」…。

私はただそれを呆然と見ていた。彼女は続けて、「登記書類も一通ずつ確認しましょう。印影の有無、ね」と言って、棚からファイルを取り出す。

彼女の対応に頼もしさを感じながらも、自分の無力さに胸が締めつけられる。

登記申請期限との戦い

申請書類はすべて揃っているが

件の登記は、今日の午後一番で申請しなければならない。委任状、登記原因証明情報、全部ある。印だけがない。いや、印影がなければすべては無意味だ。

「これは一種の“時間との戦い”ですね」とサトウさんが言う。まるで『名探偵コナン』の劇場版みたいだ。犯人を突き止めなければ、爆弾…いや、登記が爆発する。

「やれやれ、、、なんでこんな朝に事件が起こるんだよ」と私は天井を仰いだ。

依頼人からの催促電話

不穏な着信音が事務所に鳴り響く。「もしもし、登記の件、午後にはいけますか?」という依頼人の声に、思わず曖昧な返事をしてしまう。

「あー、はい、大丈夫です、たぶん…」と返すと、サトウさんの視線が突き刺さる。「“たぶん”は要らないです」とだけ、塩のように冷たい。

その言葉で背筋が伸びる。逃げるな。今こそ、元野球部の意地を見せるときだ。

不審な人物の影

前日に現れた謎の相談者

昨日、閉店間際に飛び込みで来た男の顔が思い出された。薄いスーツ、目深に被った帽子、不自然に早口な相談内容。境界確定図を探していたが、目的が曖昧だった。

「あの人、妙に事務所内をキョロキョロ見てましたよね」とサトウさん。やはり彼女も感じていたのだ。

防犯カメラの録画を巻き戻し、男の姿を確認する。彼の手元には、何か四角い小箱が。

廃業した司法書士の名前

男が口にしていた名前が気になった。「小谷さんて、まだやってますか?」確か5年前に廃業した司法書士だ。今さら何の用がある?

その名を調べると、なんと廃業前にうちの事務所と共有した古い印箱の存在が記録にあった。まさか、それを目当てに?

「彼、探していたのは“境界”じゃなくて“職印”ですね」とサトウさんは断言した。

古い印鑑登録簿の中に

閉じられたファイルから浮かぶヒント

ロッカーの奥から見つけた埃まみれの登録簿。そこには廃業司法書士の記録と共に、使用印の写真が貼られていた。

その下に、“委任印移管申請 未完了”の赤字が。ということは、小谷氏の印鑑は法的に有効ではない。つまり、それを持って何かを偽装しようとしていた?

そしてその隣のページに、なぜか“シンドウ”の名が、赤で囲まれている。

「やれやれ、、、こんなところに」

私は深いため息と共に、職印を見つけた。古いファイルの裏、分厚い背表紙の内側に貼り付けられていた。まるで昔の怪盗が隠した宝物のように。

「自分で片付けたこと忘れてるとか、さすがですね」とサトウさん。笑ってくれないのが逆にリアルだ。

私は印を取り出し、静かに机の上に置いた。「やれやれ、、、」と呟いた声が、静かな事務所に溶けていった。

ラストに浮かぶ真実

盗まれた理由とその動機

後日、例の男が旧小谷司法書士を騙り、虚偽の登記をしようとしたことが判明した。動機は借地権の争い。失われた地権を取り戻すための偽装だった。

警察に提出した録画と記録、そして私の職印の保管場所が決め手となり、未遂に終わった。

「証明する印影があって初めて、登記も人も信用されるんですよね」サトウさんの言葉が妙に刺さった。

サトウの一言とシンドウの決意

「ところで、保管方法をもう少し大人にしてください」サトウさんはそう言って、鍵付きの新しい保管箱を持ってきた。

私は頭をかきながら受け取った。「ああ、気をつけるよ。これからはもっとしっかりやる」

そんな決意を胸に、午後一番の登記所へと向かう。その背中にサトウさんの塩対応視線を感じながら。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓