気づいたら、椅子が空いていた
午後の静けさが落ち着くはずなのに、今日はなぜか落ち着かなかった。いつも通りの業務。書類の確認、登記の準備、事務員とのちょっとしたやり取り。ふと気がつくと、さっきまでそこに座っていたお客さんがいない。聞こえるはずだった「ありがとうございました」も、ドアが閉まる音さえも記憶に残っていない。ほんの数秒、目を離していただけだったのに。ぽつんと空いた椅子だけが、なにかを訴えかけている気がした。
「失礼します」の一言もないままの別れ
用件は終わっている。こちらが不備なく説明をして、お客さんも納得してくれていたと思う。でも「ではこれで失礼します」と一言あるかないかで、こちらの気持ちは大きく違う。そのまま帰られると、なにか至らなかったのではないか、機嫌を損ねてしまったのではないか、と勝手に自己反省が始まってしまう。表情を見れば分かる、と言う人もいるけれど、人の感情なんてそう単純じゃない。
あの人、何か気に障ること言ったかな……
しばらくしてから、さっきの会話を頭の中で何度もリプレイする。「あの説明、少し早口すぎたか?」「もしかして、言葉がきつかったか?」と、不安が押し寄せてくる。事務所に戻ってきた事務員に「もう帰られたんですね」と言われて、なんとなく気まずい気分になる。些細なことだけど、こういうのが地味に心に残るのだ。実際には何もなかったのかもしれない。でも“そっと帰る”という行為には、こちらの心をざわつかせる何かがある。
雑談ひとつで変わる空気
司法書士の仕事は、基本的に淡々としている。事務所に来る人も、何かしらの悩みを抱えていることが多いから、感情の起伏は少なめ。でも、その分、雑談の持つ力は大きい。「今日は暑いですね」とか、「この辺、道が分かりにくくて」といった一言があるだけで、こちらの気持ちもふっと軽くなる。そんな雑談がないまま本題に入り、無言で帰られると、ただただ作業の痕跡だけが残るのだ。
本題だけ話してすっと帰る人、悪くないけど寂しい
誤解のないように言っておくと、無口な人が悪いわけじゃない。ただ、こちらとしては“無言”に込められた意味を深読みしてしまうだけなのだ。「事務所の空気が重かった?」「自分の対応が機械的だった?」そんな風に自分を責める癖がついているのかもしれない。仕事に慣れれば慣れるほど、逆に人との距離感には敏感になっていく。
「今日は天気がいいですね」だけでも救われる日がある
ほんの一言で、気持ちが変わる日がある。「今日はいい天気ですね」その言葉だけで、“あなたと話したい”という気持ちが伝わってくる。たとえそれが社交辞令であっても、無言で帰られるよりはずっといい。きっとお客さんの方も、どこまで踏み込んで話していいか迷っているのかもしれない。こちらからも少し、緩んだ空気を作っていければと感じる瞬間だ。
誰とも話さない午前中の、あの重たい空気
電話も鳴らず、来客もなく、事務員も忙しくて黙々と作業している午前中。そんな時間が嫌いじゃないけど、長く続くと精神的にしんどい。来客があって、期待していた雑談がなかったときの“しぼみ感”はなかなかのものだ。期待するのが間違いなのかもしれない。でも、それでも、やっぱりちょっとした会話が恋しくなる日がある。
静かに去るお客さんに残される、こちら側の不安
「ありがとうございました」と言われたかどうかすら曖昧なほど、さっと立ってさっと帰ってしまう人。悪気がないのはわかっている。でも、事務所に残される側としては、不安だけがじわじわと残る。その不安は、次にその人が来るまで晴れないこともある。忘れてしまえば楽なのに、なぜか引っかかってしまうのが人間の面倒なところだ。
「もしかして不満だった?」と勝手に反省会が始まる
お客さんが帰った後、無意識に「何かまずかったかも」と思ってしまう。それはプロ意識の裏返しでもあるけれど、同時に自信のなさでもある。人当たりが悪いわけではないと思っているが、自分では気づかない圧や口調があるのかもしれない。そんなことを考えながら、反省ノートのように脳内で会話を再生している。
あの沈黙、嫌な沈黙じゃなかったと信じたい
話さない=悪い、というわけではないのは理解している。沈黙が心地よいと感じる人もいる。でも、こちらがそう感じられるかどうかは別の話だ。「沈黙が心地よかった」と信じたい、ただの願望かもしれない。でも、それでも、そっと帰られるとやっぱり何かを考えてしまうのだ。声に出して言ってくれたら楽なのに。そんなふうに、こちらの弱さが顔を出す。