気づけば、ひとり。気づけば登記簿。
気づけば周りの友達はほとんど結婚して、子どももいる。それに気づいたのは、久々の同窓会だった。あれ? 俺ってば、まだ独りじゃないか。いや、べつにそれが悪いってわけじゃない。むしろ気楽でいい。でも、隣の席で「ウチの娘がさ〜」って笑ってる昔のクラスメートを見てると、なんとも言えない気持ちになる。俺はその日、午前中に住宅ローンの抵当権設定の登記を仕上げてきたばかりだった。人の“家”に関わってるのに、自分の“家庭”はどこにもない。不思議な仕事だ、司法書士って。
同窓会で聞かれる「今、家族は?」という呪文
「おー、稲垣! 久しぶり! で、今はどんな家庭持ってんの?」という質問が、まるで同窓会の呪文のように飛んでくる。いやいや、俺は家庭を持ってないし、持つ予定も特にないし、そもそも出会いもない。けど、説明がめんどくさいから、曖昧に「まぁ、仕事ばっかりだよ」と笑ってごまかす。実際、本当に仕事ばっかりなんだけど。登記の世界に家族手当はつかない。代わりに、孤独手当でもくれたら嬉しいんだけどな、なんて思いながら。
「子どもがね〜」に「抹消登記がね〜」で返す
昔の友達が「この前、子どもが初めて逆上がりできたんだよ〜」と盛り上がる中、俺の頭に浮かんだのは「昨日の抵当権抹消、やたら手間取ったなあ」という登記の話題。そんな話は場の空気を凍らせるだけだから言わないけど、心の中では「抹消登記がね〜」とつぶやいてる。友達は未来を語るけど、俺は過去の登記簿を読み解く。なんだか時間軸がズレてる気がしてくる。
家庭ではなく、法務局と向き合ってきた
俺が30歳を過ぎた頃、周りは結婚ラッシュだった。でも、ちょうどその頃、俺は事務所を立ち上げたばかり。登記の依頼が少しずつ増えてきて、目の前の仕事をこなすのに精一杯。法務局と向き合う時間の方が、誰かとの食事よりも多かった。誰かと将来を語る余裕なんて、なかったというのが正直なところ。家庭と事業、両立なんて夢のまた夢だった。
結婚適齢期は、開業準備と重なっていた
29歳のとき、「そろそろ結婚も考えないとね」と周りが言っていたが、俺は「そろそろ開業を考えないと」と頭を悩ませていた。恋愛もしたかったし、誰かと支え合う生活にも憧れていた。でも、目の前にある借金と書類の山に、夢を語る余白はなかった。あのときの選択が間違いだったとは思っていないけれど、今になってふと、「あのときの俺も、もう少し甘えてよかったのかな」と思うことがある。
家を建てた友人、所有権移転登記を請け負う私
先日、大学時代の友人が家を建てた。その所有権移転登記を、俺が担当することになった。「お前に頼めて安心したよ」と言ってくれる友人の顔を見ながら、胸の奥がちょっとだけモヤッとした。だってその家の持ち主は彼で、その家族写真が添えられた住民票を見たとき、自分の孤独を突きつけられたような気がしたから。でも、笑って「まかせとけ」と言うのが、司法書士の仕事なのだ。
登記簿にしか名前が載らない日々
人は戸籍に、俺は登記簿に名前が載る。結婚した人は戸籍謄本で「誰と家族になったか」が記されるが、俺の場合は「誰の家を登記したか」が記録される。誰かの人生の裏側で静かに働く。それが司法書士の宿命なんだと思う。でも、名前が記録されるのは公正証書や登記簿のすみに小さく。ちょっと切ない話だけど、それが俺の居場所だ。
「パパ」ではなく「代理人」と呼ばれる日常
保育園で「パパ!」と子どもが走っていくのを横目に、俺は「先生、この書類、代理人として持ってきました」と事務所の前で言っている。たしかに、“呼ばれ方”というのは人生の象徴だ。自分のことを「代理人」として呼ばれ続ける人生ってなんなんだろう。でも、不思議と寂しいわけじゃない。ただ、少し笑えるだけだ。いや、笑うしかないのかもしれない。
登記事項証明書に囲まれた休日
日曜の昼下がり。友人は家族でイオンモール、俺は事務所で登記事項証明書のチェック。なんだこの差は。いや、どっちが幸せかは分からないけど、少なくとも俺は「間違いのない登記」をすることに、ちょっとした誇りを持っている。けど本音を言えば、たまにはイオンでソフトクリームくらい食べたい。
保育園の話題と、表題部の話題の交差点
登記簿の「表題部」について熱く語れる場は少ない。友人たちは保育園の「入園手続き」について盛り上がっていた。俺は一人、「建物表題登記の通知書」で盛り上がっていた。何が正しいとかではなく、ただ違うだけ。でもこの違いが積もると、少しずつ「距離」になるんだな、と感じることがある。
それでも仕事は、誰かの人生の通過点
登記は地味な作業だ。でも、その先には家族の未来がある。俺が処理した抵当権抹消の書類の向こうには、新しく生まれた安心や希望がある。表には出ないけど、誰かの人生の節目に立ち会っている感覚。司法書士は黒子だ。でも、黒子にしか見えない景色もある。
目立たないけれど、確かに必要とされている
「先生のおかげで安心できました」と言われたとき、思わず「こちらこそです」と頭を下げてしまった。俺は、人に感謝されるような人間じゃないと思っていたけど、こうして誰かの「区切り」を支えられているという実感が、続ける力になる。家庭はないけど、信頼はある。少なくとも、そう信じたい。
「ありがとう」の一言が、深夜残業を帳消しにする瞬間
ときどき、深夜に事務所で一人で書類を仕上げていると、なんでこんなことしてるんだろうと虚無感に襲われる。でも翌日、お客さんから「本当に助かりました」の一言をもらうと、その感情が帳消しになる。「ああ、俺の仕事って、誰かの役に立ってるんだな」って思える。それだけで、またやれる。
独身司法書士の心のメンテナンス
毎日が仕事漬けだと、心がささくれてくる。独身って自由だけど、放っておくとどこまでも落ち込んでいく。だから自分で気持ちを切り替えるしかない。仕事と孤独のバランスを取るのは簡単じゃないけど、自分なりの“ご褒美”を用意することにしている。
ネガティブになった夜の切り替え方
ネガティブになった夜は、無理にポジティブになろうとしない。むしろ、自分にとことん愚痴を言わせる。紙に書いて、「うん、しょうがないよな」って受け止めて終わる。無理やり笑うより、ちゃんと自分の声を聞いてやったほうが回復が早い気がする。誰にも気を遣わず落ち込めるのは、独身の特権だ。
推しのYouTube、コンビニのホットスナック
最近の癒しは、推しのゲーム実況動画を観ながら、ファミチキを食べること。誰にもジャッジされない、誰にも見られない時間。これがあるから、なんとかやっていける。司法書士だって、そういう時間がなきゃやってられない。
事務員さんとの雑談が命綱
うちの事務員さん、もう長く働いてくれてる。世代も違うけど、気遣いがうまくて救われてる。たまに「先生、顔怖いですよ」と言われて笑えるのもありがたい。孤独を分かち合うってほどじゃないけど、あの存在がなかったら、たぶん今の自分はもっと壊れてた。
家庭はなくても、人生はある
家庭を持つのが幸せだと、どこかで信じ込んでいた。でも違う。幸せの形は人それぞれだ。俺は登記を通じて、人の人生の一部に関われている。それはそれで、悪くない人生じゃないかと思う。独り舞台でも、拍手がなくても、自分で納得できるなら、それでいいんじゃないか。
登記を通して見える「家族」の形
誰かが亡くなったとき、相続の登記をすることがある。そのときに見る家族の姿は、決して美しいだけじゃない。揉めることもあるし、無言のまま書類に印鑑を押す人もいる。けれど、その中にも「家族」というつながりが確かにある。登記の現場には、そういう“人生のかたち”が詰まっている。
一人だからこそ、見える景色もある
誰かと生きる人生はきっと素晴らしい。でも、独りで生きるからこそ見える景色もある。静かな夜の事務所、誰もいない法務局の前、完璧な書類がそろった瞬間の達成感。誰にも話せないけど、自分の中では確かに「誇り」と呼べるものが、そこにある。