肩書きじゃなくて、僕を見てくれ――司法書士である前に一人の人間として

肩書きじゃなくて、僕を見てくれ――司法書士である前に一人の人間として

肩書きが「私」を覆い隠す日常

「先生」と呼ばれるようになって、何年が経つだろう。最初のころは少し誇らしかった。父に電話で報告したとき、「お前も立派になったな」と言われたのを思い出す。でも、今は違う。その呼び方の背後にある“期待”や“立場”が、重たく感じる。まるで、私という人間の輪郭が、肩書きに塗りつぶされていくような。司法書士であることは、確かに私の一部だ。でも、それだけじゃない。そう思いたくても、現実の私には、なかなか「ただの人」として向き合ってくれる人がいない。

「先生」と呼ばれるたびに、距離ができていく

昔の友人から久しぶりに電話がかかってきた。嬉しかった。けれど、開口一番「おお、先生!すごいな!」と言われた瞬間、ふっと気持ちが引いた。彼に悪気はないのは分かってる。でもその一言で、私は「友人」ではなく「職業」になってしまった。これは日常のあちこちで感じることだ。病院でも、市役所でも、恋愛でも。肩書きにフィルターがかかることで、素の私はなかなか見てもらえない。心の奥では、「ただの○○さん」でいいのにと思っている。

本音を言えば、誰かに弱音を吐きたい

人の登記や相続の悩みには、冷静に対応できる。だけど自分の感情の整理となると話は別だ。夜中、ふと目が覚めて眠れないときがある。そんなとき、誰かに「今日も疲れた」とだけ言いたくなる。でも、それを口に出す場所がない。事務員には気を遣うし、同業の先輩には格好悪い。かといって家族も近くにいない。そうなると、ただPCの前で無音のまま資料を見つめる夜が続く。たまには人間らしい感情を、隠さず出したいと思ってしまう。

名刺がないと、会話すら弾まない現実

合コンのような場に行くことは少ないが、たまにそういう機会があると、自己紹介の一言目が「司法書士をしています」になってしまう。そしてそれが全てになってしまう。話題は「すごいですね」「堅そうなお仕事ですね」で終わる。そこから先の「自分」の話は、なぜか消えていく。肩書きがなければ、興味も持たれないんだろうか。そんな気持ちが心の隅に残る。名刺を出さなければ始まらない関係に、少し疲れている。

司法書士という立場に救われながら、苦しんでもいる

仕事にやりがいがないわけじゃない。むしろ、誰かの人生の節目に関われるのは光栄なことだ。でもその分、自分の心を押し殺してしまう場面も多い。「先生なら分かってくれるはず」とか、「法律家だから冷静ですよね」とか。そんな言葉に応え続けるうちに、本当の自分の感情にフタをしてしまう。司法書士であることに救われた面も多いけれど、同時に「一人の人間」としての自分が、遠ざかっていくような気がしてならない。

人の相談に乗る側なのに、自分のことは誰にも話せない

たとえば依頼者の涙を見るとき。私はいつも静かに話を聞く。でも心の中では、「自分だって泣きたい夜がある」と思っている。だけど、それを口に出す場面はない。事務所に戻れば、淡々と書類を整え、次の予定を確認し、次の日に備える。そんな繰り返し。司法書士は人の悩みに寄り添う職業だけれど、自分自身の悩みを抱える場所がない。矛盾しているけど、それが現実だ。

事務員には見せられない“孤独”の正体

事務所で一緒に働く女性事務員は、気が利いてしっかりしている。でも彼女に自分の孤独や寂しさを話すわけにもいかない。立場がある。距離感がある。「先生は強いですから」と言われるたびに、心が締めつけられる。強くなければいけない空気の中で、弱さを出せない。それが余計に孤独を呼び込んでくる。

同業者同士でさえ「素のまま」ではいられない

久しぶりに参加した司法書士の勉強会。情報交換の場なのに、話のほとんどが「どれだけ忙しいか」「何件抱えているか」といったマウント合戦だった。そんな空気に飲まれて、素直に「最近ちょっと疲れてます」とは言えなかった。仲間のはずなのに、素のままの自分では居づらい。職業人である前に、もっと人としてつながれる場が欲しいと思ってしまう。

独身男性司法書士という“属性”への視線

独身だというだけで、なぜか「なにか問題があるのでは?」という空気を感じるときがある。親戚の集まりでも、婚活アプリでも、「司法書士で独身」というだけで変に構えられる。「堅そう」「忙しそう」「扱いづらそう」。勝手なイメージばかりが先行する。誰かと自然な関係を築きたいだけなのに、それすらままならないときがある。

「結婚してないの?」という何気ない一言が刺さる

先日、近所の方に呼び止められて「先生、もう結婚したの?」と聞かれた。「いや、まだなんです」と答えたら、「もったいないねえ、いい仕事してるのに」と言われた。その一言がなぜか胸に残った。“もったいない”のは私じゃなくて、仕事という肩書きなのか。そう考えると、急に虚しさがこみ上げた。私という人間そのものを、誰かにちゃんと見てもらえたことって、最近あっただろうか。

モテないのは肩書きのせいじゃない。でも…

モテない理由を職業のせいにするつもりはない。でも、初対面で「司法書士なんですね」と言われた瞬間に、相手の目が変わるのを見ることがある。憧れとか尊敬じゃなくて、“距離”の目だ。気軽に冗談を言っても引かれることがあるし、変に「まじめ」なキャラにされてしまう。どんなに自然体でいたくても、周囲がそうさせてくれない。そんなもどかしさが、毎日のようにある。

本当に欲しいのは、役職じゃなく「理解」

人からの評価や感謝が欲しいわけじゃない。依頼者からの「ありがとう」は嬉しい。でもそれ以上に、本当はただ、「あなたってこういう人なんだね」と理解してもらいたいだけ。司法書士である前に、一人の人間として。誰かと心のままでつながれたら、それだけで十分なんだ。

ただの“人間”として話せる相手がほしい

何気ない冗談を言って、笑ってくれて、「今日、疲れてない?」って聞いてくれる。そんな普通の会話が、最近どれだけ遠ざかっているか。仕事の電話が鳴らない時間に、静かな空気が流れるとふと思う。「俺って誰かにとって、ただの“人間”なんだろうか」と。そんな存在になれる相手に、いつか出会えたらと願ってしまう。

「役に立つ」だけの存在ではいたくない

依頼を受けて、問題を解決して、報酬をもらう。そのサイクルの中で、自分の存在価値が「役に立つかどうか」だけに縛られていく。仕事だから当たり前だ。だけど、ふとしたときに「俺は便利屋じゃない」と思ってしまう瞬間がある。感情を持った一人の人間として、誰かのそばにいたいだけなんだ。

書類の向こうにある人の心を見ていたい

司法書士として書類を扱う毎日だけど、結局それは“人の人生の裏打ち”なんだと思っている。だからこそ、相手の表情や声のトーン、沈黙の時間に気を配るようにしている。人として接しなければ、単なる作業員になってしまう。相手もまた「肩書き」ではない、「人」であることを忘れないようにしたい。私も、そしてあなたも。

「感謝」より「共感」がしみる夜もある

ありがとう、と言われるのは確かに嬉しい。けれどそれ以上に、「分かります、私もそうでした」と言われると涙が出そうになることがある。感謝よりも、共感のほうが深く心に響く夜がある。だからこそ、こうして文章を書く。司法書士である前に、人としての自分の声を、誰かに届けたくなる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。