自分の誕生日を忘れるようになった日々――司法書士という仕事に飲まれて

自分の誕生日を忘れるようになった日々――司法書士という仕事に飲まれて

気づいたら、今日が誕生日だった

朝からバタバタと書類作成に追われ、気づけばもう昼を過ぎていた。コンビニに立ち寄って、レジ横の季節限定スイーツに目を留めた瞬間、「あれ?今日って…」と違和感が走った。スマホのカレンダーを見ると、確かに自分の誕生日。だけど、なぜかそれが一瞬わからなかった。「あ、俺、今日誕生日じゃん」。声に出してみても、なんの感慨も湧いてこない。誰かに言われて思い出すのでもなく、自分でやっと気づいたその事実に、なんとも言えない空虚さが広がった。

昼過ぎのコンビニで違和感に気づく

コンビニの冷蔵棚を眺めているとき、なぜか急に違和感がこみ上げてきた。妙に静かな日だな、という感じ。誰からもLINEも来ないし、朝から何かが足りない気がしていた。レジに並びながら、ふと財布に目をやったとき、去年の誕生日に自分で買ったレザーのカードケースが目に入った。そこから「今日ってもしかして…」と記憶を手繰り寄せるようにスマホを確認して、自分の誕生日だったことに気づく。あまりに自然に通り過ぎようとしていたことに、逆にショックを受けた。

カレンダーには「登記」しか書かれていなかった

仕事用のGoogleカレンダーには、「相続登記提出」「本人確認書類チェック」「郵送対応」など、見慣れた予定がぎっしり並んでいる。その中に「誕生日」なんて書かれていないし、そもそもそんな記念日を入れる習慣ももうない。数年前までは一応入れていた。でも、気づけばクライアントの都合や法務局の締め切りの方が大事になって、自分のことは後回し。今日も例外ではなかった。自分自身の人生を示す日付より、他人の書類の日付のほうが大事にされている現実に、なんだかやるせなさを感じた。

誰も悪くない。でも、なんかちょっと寂しかった

別に誰かに祝ってもらいたかったわけじゃない。SNSに「おめでとう」なんてコメントが欲しかったわけでもない。ただ、自分ですら忘れていたことに、ぽっかりと穴が空いたような気分になった。仕事で頭がいっぱいなことは悪いことじゃない。むしろそれが自分の生活を支えているのは間違いない。でも、それがあまりに自然になりすぎて、自分の存在すらスルーしてしまうような毎日って、どうなんだろうかと考えてしまう。ちょっとだけ寂しかった、それだけの話だ。

誕生日を祝う余裕が消えたのはいつからか

思い返してみれば、30代の終わりごろからだろうか。誕生日を迎えても、何か特別なことをするわけでもなくなった。ケーキも買わないし、誰かとご飯を食べる約束もない。ただ、淡々と仕事をこなして、その日が過ぎていく。昔は多少なりとも、何かしらの「お祝いムード」があったはずなのに、それすらなくなった今の自分に気づいて、少し悲しくなった。

仕事中心の生活が当たり前になっていた

開業して十数年、気づけば「仕事が第一」の生活にどっぷりと浸かっている。朝は事務所に直行し、夜はクライアントからの電話対応。休日も登記の確認や書類作成に追われ、誰かと食事する時間すら惜しく感じる。そんな生活が当たり前になりすぎて、もう「休む」「祝う」という感覚自体が薄れていた。忙しいのはありがたいことだと思いながらも、ふと立ち止まったとき、「これって幸せなのか?」と考えてしまう。

「先生忙しいですね」と言われるのが褒め言葉になっていた

地域の人たちに「先生、いつもお忙しそうですね」と言われるたびに、「まぁ、なんとか」と答えていた。でも、いつの間にかその言葉を「評価」だと受け止めるようになっていた。「暇な司法書士=頼りない」と思われるのが嫌で、予定を詰め込んでいる自分がいた。だけどそれは、本当に自分が望んでいた働き方だったんだろうか。今では、「忙しさ」でしか自分を肯定できないことに気づいて、怖くなることがある。

自分の生活を「こなす」だけの毎日に変わっていた

朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、ご飯を食べて寝る。ただそれだけの毎日が、もう何年も続いている。充実してるとは言い難いけれど、「やるべきこと」は確かにある。だけど、やりたいことは何だっけ?と自問しても、すぐには思い浮かばない。それくらい、自分の感情や欲望に鈍感になっている。誕生日を忘れるというのは、もしかしたら「自分」という存在そのものを忘れかけていた、ということかもしれない。

誕生日を忘れるほどの忙しさ、その正体

単純に仕事が多いだけではない。イレギュラーな対応、細かい確認、相談対応、郵送トラブル、電話連絡。司法書士という仕事は、想像以上に「ノイズ」のような雑務に時間を取られる。効率化したいと思いながらも、依頼者にとっては一度きりの大切な手続きだから、手は抜けない。その積み重ねが、自分の時間や気持ちを削っていく。気づけば「今日」が「昨日」になっていた、そんな感覚が日常になっている。

依頼が重なると、予定表すら見る余裕がなくなる

忙しい週に限って、相続案件が2件、会社設立1件、抵当権抹消が3件…そんなタイミングで電話も鳴りやまない。予定表に書いてあるはずのタスクすら後回しになり、直近の処理に追われる。事務員さんが一人いるとはいえ、専門的な判断はすべて自分。ミスが許されない業務の連続に、休憩すら忘れて没頭してしまう。だからこそ、日付や曜日に対する感覚が薄れていくのだ。

事務員一人、電話一台、郵便もFAXも…手が足りない

大手の司法書士法人のように分業ができれば違うのかもしれない。でも、地方の小さな事務所では、すべてが「自分ともう一人」で回っている。郵便物のチェック、FAXの送信確認、登記申請の補正対応、クライアントからの電話…。全部が「自分じゃなきゃできない」ことばかり。1日中走り回っているような気分になるが、実際には椅子に座ったまま、頭の中だけがぐるぐる回っている。

業務の「切り」がないまま夜になる日々

この仕事には、「ここで終わり」という線が引きにくい。裁判所の期限、法務局の返答、クライアントの都合。どれもが自分のスケジュールに入り込んでくる。「今日はここまで」と区切ろうとしても、ついメールを開いてしまったり、電話に出てしまったりする。それを続けているうちに、「夜になったら自分の時間」という感覚が完全に消えた。だからこそ、今日が何日で、何曜日で、何の記念日なのかを忘れるようになってしまった。

同業者のみなさん、似たような経験ありませんか?

この感覚、きっとあなただけじゃない。そう思えることが、ちょっとした救いになるかもしれない。司法書士という仕事は、人の人生の節目に関わる仕事だけれど、自分自身の節目は置き去りになりがちだ。誕生日を忘れた日、私は少しだけ自分を取り戻した気がした。今度の誕生日は、ちょっとしたおにぎりでもいいから、自分のために「おめでとう」と言ってやろうと思っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。