気を遣うことが前提になってしまった日常
もう何年も一人で司法書士事務所を運営しているけれど、今の事務員さんを雇ってからというもの、妙に自分が「気配りマシン」になってしまっているような感覚に襲われる。ちょっとした言葉のトーンひとつでも「今の、きつかったかな」と気になってしまい、なんだかずっと神経が尖ったままだ。事務員さんは特に悪い人でもないし、文句も言わない。でも、こちらが勝手に気を遣いすぎて、結局それで勝手に疲れているという不思議な構図ができている。最近はその疲労がじわじわと積み重なって、朝から胃が重たい日もある。
「いい上司」でいようとする自分の癖
「怖い上司にはなりたくない」と思っているうちに、「いい人を演じ続けなければならない」という強迫観念に近いものが生まれてしまった。自分で自分を追い詰めているようなものだ。言葉を選んで話し、頼みごとも柔らかくして、何なら仕事の期限も気を遣って甘くすることもある。でも、そうやって我慢を積み重ねた結果、仕事が自分の首を絞めてくるようになる。ふと、「これ、誰のための職場なんだろう」と自問することもある。
仕事を頼むだけで心の準備が必要になる
「ちょっとこの書類、確認してくれる?」と聞くだけなのに、事前に心の準備が必要になる。忙しそうな時に頼んだら嫌な顔されるんじゃないか、昨日ちょっとしたことで空気が悪くなったから今日は様子見ようか……そんなことを一つひとつ考えているうちに、自分の仕事が遅れていく。でも、だからといって強く出る勇気もない。結局、遠回しにお願いしてしまって、ますます言葉も重くなっていく。
「これお願いできますか?」が言えなくなる瞬間
ある日、「これ、お願いできますか?」と声をかけようとした瞬間、喉が詰まったように言葉が出てこなかった。まるで何かを頼むこと自体が罪のように感じたのだ。少し前に、頼んだ書類整理でミスがあって、それを指摘したら微妙な空気になった。そのときの記憶がよみがえって、また気まずくなるんじゃないかという不安がよぎった。こんな些細なことで自分がこんなに消耗するのかと情けなくなった。
相手を大切にするあまり、自分が後回しに
気を遣いすぎると、どうしても自分のことを後回しにしてしまう。たとえば、こちらが熱を出していても「今日は大事な手続きがあるから無理させられないな」とか、「休ませたら彼女の給料に響くんじゃないか」などと勝手に配慮してしまう。その結果、無理して出勤し、自分の体調が悪化するという悪循環。気を遣っているはずが、誰も得をしていないような感覚に陥る。
昼休憩の時間すら気を配ってしまう
昼休憩の時間も、事務員さんがゆっくりできるように気を配ってしまう。たとえば、電話が鳴っても「今は休憩中だろうから、自分が出よう」と考えてしまうし、こちらが休憩を取ろうとした時も「彼女が今作業中なら、もう少し後にしよう」と自分のペースを合わせてしまう。いつの間にか、職場での主導権が自分にあるはずなのに、気づけば空気を読み続けているだけの存在になっている。
“気を遣う”と“思いやり”は違うはずなのに
本来、「気を遣う」と「思いやる」は違う。思いやりは、相手のことを考えて自発的に行うものだ。でも、気を遣うというのは、どこか「怒らせないように」「機嫌を損ねないように」という防衛的な感覚がある。思いやりなら温かい気持ちがあるけど、気を遣いすぎると、自分を守るための処世術になってしまっていて、精神的な消耗感がすごい。気を遣っているうちに、気持ちが冷えていくのを感じる。
そもそも、なんでこんなに疲れるのか?
一日中「この発言で嫌われないかな」「今の態度、悪かったかな」と考えていたら、そりゃ疲れるに決まっている。疲れる理由は単純で、ずっと他人の感情の顔色を伺っているからだ。しかも、自分の仕事は責任も重く、書類ミスや期日遅れは許されない。その上で人間関係にも神経を使っていたら、いつかどこかでポキッと折れてしまうだろうという予感がある。
気を遣う=エネルギー消費、の現実
気を遣うというのは、それだけでエネルギーを使う。朝の「おはようございます」から始まり、昼の「今日は疲れてなさそうかな?」という観察、夕方には「早めに帰らせたほうがいいかな」といった気配り。事務仕事とは関係ないところで精神的な電池を使い切っている。しかも、相手にそれが伝わるとも限らない。むしろ「普通に優しい人」で片づけられて、自分の努力が見えないのもまた、虚しい。
一人事務所の「空気」管理がしんどい
自分以外に上司もいなければ同僚もいない。つまり、空気の管理はすべて自分の役割だ。事務員さんが黙っていると「何か機嫌を損ねたか?」と疑い、逆に明るいと「何かいいことあったのかな?」と推測する。こうして常に空気を読むことで、自分が職場の“感情のバランサー”になってしまっている。空気に飲まれてしまった状態で仕事をするのは、思った以上に消耗する。
相手が悪いわけではない、でもしんどい
事務員さんが特にわがままだったり、悪意があるわけではない。それは分かっているし、むしろ感謝している。でも、それでもしんどいものはしんどい。人と一緒に働くというのは、どこかで妥協や緊張がつきものだというのはわかっているけれど、こんなに気をすり減らす必要があるのかと疑問に思う。
感謝してるけど、やっぱり疲れるものは疲れる
こちらが病気で倒れたとき、事務員さんは心配してくれたし、気遣いの言葉もかけてくれた。その時は「いい人に来てもらえてよかった」と本心で思った。でも、それでも日常の中ではやっぱり疲れてしまうのだ。感謝していても、気を遣っていないわけじゃない。感謝と疲労が同居している感覚に、自分でも戸惑う。
「辞められたら困る」が心の足かせになる
小さな事務所にとって、一人の事務員さんの存在は大きい。だからこそ「辞められたら困る」という恐怖が常にある。その恐怖が、こちらの言動をどんどん縛っていく。「ミスを注意して気分を悪くさせたらどうしよう」「給料のこと言い出しづらいな」など、言うべきことを言えなくなっていく。これはもう、健全な関係ではないのかもしれない。
どうやってバランスを取るか模索している
結局のところ、気を遣いすぎないことが正解なのだと思う。けれど、それが難しいのが人間関係というものだ。仕事に支障が出るレベルまで気を遣うのは、自分にも良くないし、事務員さんにとっても健全じゃない。少しずつでも、自分を守るための言動を心がけて、バランスを取っていきたい。
気を遣わない時間を少しでもつくる工夫
最近、無理して話しかけるのをやめてみた。沈黙があると気まずいと思っていたけれど、意外と平気だった。むしろ、静かに作業している時間の方が集中できて、気持ちも落ち着いた。必要以上に会話を盛り上げようとする必要はないのだと気づいた。これだけでも、少し肩の力が抜ける。
無理に話さない「沈黙の時間」を肯定する
沈黙が怖かったのは、自分が「変な人」と思われることを恐れていたからかもしれない。でも、沈黙は悪ではない。ただの状態だ。会話がない時間を「気まずい」と思い込んでいたのは自分自身で、実は相手は何も気にしていなかったのかもしれない。無理に空気を温めようとするのをやめてみると、心が少しだけ自由になれた。
「全部自分が悪い」はもうやめたい
これまで、「自分がもっと上手くできれば」「自分が空気を読めていれば」と、何かあれば全部自分のせいにしてきた。でも、それではいつか壊れてしまう。他人の感情はコントロールできないし、職場の空気を常に快適に保つなんて無理な話だ。もっと自然体で、少しずつでも、自分の心にも優しくしてやりたいと思っている。
優しさが自分を潰さないために必要なこと
優しくあることは大切だ。だけど、その優しさが自分を削っていくようでは、本末転倒だ。相手に対して誠実であろうとする気持ちは大事にしつつ、自分を守るための線引きも必要。優しさは、自分が潰れてしまっては続かない。だからこそ、自分のキャパを正しく把握して、無理せず、少しずつでも肩の力を抜いていこうと思う。