今年もまた一人で迎えるお花見シーズン

今年もまた一人で迎えるお花見シーズン

一人で見る桜にも慣れてきたはずなのに

春が来るたびに、事務所の窓からちらりと見える桜の木が気になる。ああ、今年も咲いたか、と心の中でつぶやく。でもその瞬間、なぜか胸が少しだけ苦しくなる。お花見なんて、もう何年もしていない。というか、誰かと連れ立って出かけること自体が減ってしまった。気づけば、春の楽しみ方を忘れてしまったような気さえする。忙しい日々にかまけて、桜を見上げる余裕もなくなってしまった自分に、少しだけ腹が立つ。

春の訪れと共に感じる焦燥感

春って、本当はわくわくする季節のはずなのに、なぜかこの歳になると落ち着かない気持ちになる。特に桜が満開になる頃、自分の中で妙な焦りが出てくるのだ。「また一人か」という思いが、ぐるぐると頭を巡る。別に一人が悪いわけじゃない。仕事もあるし、生活も回っている。でも、周りのカップルや家族連れが楽しそうにお花見をしているのを見ると、心のどこかが「ぽっかり」と空いたように感じてしまう。

今年こそ誰かと見られるかもしれないという淡い期待

年明けに「今年こそ誰かと桜を見たいな」と思ったことがある。そんな淡い期待を胸に抱きながら、結局は何も変わらないまま春が来る。出会いの場に行くわけでもなく、努力するわけでもなく、ただ日常に流されていく。そんな自分が情けないと思う反面、行動する気力が湧かないのも事実。きっと心のどこかで、「どうせ無理だろう」と諦めているのだろう。独身歴が更新されるたびに、桜が少しずつ遠く感じる。

花見の季節に浮かぶ過去の思い出

桜を見ると、昔の思い出が蘇る。学生時代、もっと自由で無邪気だった頃、花見はただ楽しい行事だった。仲間と集まって、バカみたいに騒いで、気づけば終電ギリギリ。そんな春の日々が、今ではまるで別の人生のように感じる。大人になった今、あの頃のような花見はもうできない。でも心のどこかで、あの時の楽しさをもう一度味わいたいと思っている。

学生時代のにぎやかな花見と今の静けさ

大学時代の野球部の仲間とは、毎年のように花見をしていた。酒を持ち寄って、桜の下で大声で笑って、くだらない話で盛り上がった。あの頃は、将来のことなんて考えずに、ただ今を楽しんでいた。今の自分には、あの賑やかさはない。代わりにあるのは、静かな夕暮れに一人で桜を見上げる時間。それはそれで悪くないけれど、どこか物足りなさを感じてしまう。

野球部仲間と笑い合った桜の下

今でも覚えている。部活帰りにみんなで近くの公園に寄って、ユニフォームのままで花見をしたこと。酒も食べ物も大したものじゃなかったけど、あのときの空気と桜の美しさは、今でも忘れられない。あの瞬間が「青春」だったんだと思う。あれから20年以上が経ち、それぞれの人生を歩み始め、もう連絡も取らなくなった仲間も多い。桜を見るたびに、そんな彼らの顔が浮かぶ。

誰かの存在が日常を彩っていたあの頃

誰かが隣にいるだけで、日常がこんなにも明るく感じられたんだと、今さらながら気づく。別に恋人じゃなくてもいい。気の合う仲間や、ふと気を抜ける存在。そういう人と一緒に過ごす春は、どんなに風が冷たくても温かかった。今は、誰かの気配がないことに慣れすぎてしまったのかもしれない。だけど心の奥では、まだあのぬくもりを求めている自分がいる。

仕事の忙しさで春を感じる暇もない現実

司法書士という仕事は、季節を味わう余裕なんてなかなか与えてくれない。年度替わりのタイミングは特に忙しい。登記の依頼やら書類作成やら、気づけば一日が終わっている。事務員の女性が「桜咲いてましたよ」と声をかけてくれるまで、春が来ていたことすら忘れていた。そんな毎日を過ごしていると、自分の心も少しずつ乾いてくる。

桜を見上げる時間すら惜しい日々

ちょっと事務所を出れば、通り沿いの川沿いに立派な桜並木がある。でも、それを見に行く時間すら惜しくなる。なにせ、目の前の仕事が片付かないのだ。依頼者の信頼に応えるのは当然としても、自分自身の心のケアはどこかに置き去りにされている。気がつけば、桜の季節が終わっていたなんて年も珍しくない。仕事に追われるとは、こういうことだ。

事務所と自宅の往復で完結する毎日

この町で開業して十年以上、生活はすっかりルーティン化してしまった。朝は早く出て事務所へ、夜はへとへとで帰宅するだけ。スーパーもコンビニも寄らず、ただ静かに一日が終わる。そんな中で、ふと「何のために働いているんだろう」と自問することがある。誰かと笑い合う時間を後回しにしてきた代償は、思っていたよりも大きいのかもしれない。

たった一人の事務員に支えられて

正直、事務所がまわっているのは彼女のおかげだ。細かい気配りや、書類のミスを防ぐチェック、本当に助けられている。ときどき、彼女がいなかったらこの事務所は潰れていたかもしれないと思うほどだ。でも、そんな感謝の気持ちをちゃんと伝えることもできずにいる自分が情けない。忙しさにかまけて、人とのつながりを大切にする余裕がなくなっている。

なぜか春になると孤独が刺さる

冬の寒さには耐えられるのに、春の暖かさには心がざわつく。不思議なことに、春の空気や匂いは、心の隙間を刺激してくる。桜の美しさが際立てば際立つほど、それを誰かと共有できないことに寂しさを覚える。今年もまた一人でお花見を終えるのか、そんな思いが頭を離れない。

誰かと生きていくことへのあきらめと未練

もう45歳。世間的には「独身でも別にいいじゃない」という風潮もあるけれど、やっぱり人は誰かと生きていきたい生き物なんだと思う。ただ、長年一人で過ごしてきた分、誰かと生活を共にすることへの不安も大きい。「どうせうまくいかない」と心のどこかで決めつけている自分がいる。でも同時に、心の奥ではまだ諦めきれない思いもくすぶっている。

ひとり花見の中に見える自分の輪郭

結局、今年も一人で桜を見た。コンビニで買った缶ビール片手に、川沿いのベンチに座っていた。風に舞う花びらを眺めながら、「ああ、これが俺の春か」と苦笑いした。寂しさもあるけれど、どこか納得している自分もいる。ひとりで過ごす時間が、自分を映す鏡になる。誰かと過ごす春もいいけれど、一人で見つめる桜もまた、悪くはない。

それでも明日は来るし仕事もある

桜が散っても、日常は続く。書類は溜まり、登記は待っている。お花見ができなかったからといって、生活が止まるわけじゃない。むしろ、こんな風に忙しく働けることがありがたいのかもしれない。独り身だって、役目はある。必要としてくれる依頼者がいる。それだけでも、今の自分は十分だと、そう思いたい。

悩みながらも毎年桜を見ている自分へ

誰かと見たいと願いながらも、毎年一人で桜を見ている。そのたびに、自分の弱さや未練に気づく。でも、それでも桜を見に行く自分がいる限り、心の中に希望はあるのかもしれない。司法書士としての仕事に追われる毎日だけど、ほんの少しの時間でもいい。桜の下で、自分を振り返る時間を持ち続けたいと思う。今年も、そしてきっと来年も。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓