「また補正か…」が朝の挨拶になった司法書士の現実

「また補正か…」が朝の挨拶になった司法書士の現実

朝イチの法務局メール、それは「補正のご案内」

毎朝、机に向かって最初に開くのが法務局からのメールになって久しい。眠気まなこでモニターを見つめながら、件名に「ご案内」と書かれていたら、それはもう補正のお知らせである可能性が高い。「ああ、またか」とため息をつくのがルーティン化していて、自分でも笑える。だがその笑いも乾いている。もはや「おはよう」ではなく「また補正か…」が一日の始まりになってしまった。これ、きっと他の司法書士さんも同じなんじゃないかと思ってる。

メールを開く前から察する、いやな予感

件名の文字を見ただけで、脳内に「登記の申請につきまして…」という声が再生される。開かなくてもわかる。まるで、自分が学生時代にテストで赤点をとって、答案用紙を返される直前の空気感。覚悟を決めてクリックするが、その文面を読むたびに心が少し削れていく。どこが間違っていたのか、どう直すのか、頭ではわかっているのに感情がついてこない。

タイトルに「ご案内」って書いてある時点でだいたいアレ

「補正」という言葉を直接書かずに「ご案内」でごまかすあたり、優しさなのか嫌がらせなのか判断がつかない。初めて補正メールを受け取った頃は、法務局の方の配慮かと思っていたけど、慣れてくると逆にそのぼやかし方がじわじわ効いてくる。まるで、「怒ってるわけじゃないんだけどさ…」とやんわり説教してくる上司のようで、余計にダメージがくる。

確認ボタンを押す指が重たい理由

補正メールを開く瞬間、クリックする人差し指に少しだけ力が入らない。それは、「また何かやらかしたのか…」という自己嫌悪と、「もしかして今回は違うかも?」という一縷の希望がせめぎ合っているから。結果として、希望はあっさりと打ち砕かれ、「下線の記載に誤りがあるため補正願います」の文字が表示される。今日も一日、静かに始まる。

補正通知が日常になった、悲しき慣れ

補正対応が珍しい出来事だったのは、司法書士として駆け出しの頃だけだった。気がつけば、月に何通も届く補正メールを見ても動じなくなっている。いや、動じないふりをしているだけかもしれない。慣れてしまったというより、諦めに近いものがある。完璧を目指しても、完璧にはならない。そんな現実が、静かに自分を追い詰めている気がする。

「またか…」が口癖になるまで

初めのうちは、「なぜこんなミスをしたのか」と自分を責めた。でも今は、「またか…」とつぶやくことで感情を処理している。まるで呪文のようだ。事務所でその言葉をつぶやいた瞬間、事務員さんも「またですか…」と苦笑いする。完全にルーティンだ。だがその何気ないやりとりの裏に、重たい現実と疲弊があることは、他人にはなかなかわからない。

ミスではなく“補正前提”の文化?

そもそも、補正される前提で登記を出すような業務の構造自体が、どこかおかしいのではないかと思うことがある。法務局ごとに微妙な運用の違いがあって、それをすべて網羅するなんて無理ゲーだ。ミスというより、運が悪かったと言いたくなるような指摘もある。業界全体が補正ありきで回っている気がしてならない。

完璧なんて求めていない(求められてない?)

結局、どれだけ気をつけても「抜け」が出てしまう業務。完璧主義でいればいるほど自分が壊れていく。だから、もう「完璧じゃなくていい」と自分に言い聞かせている。とはいえ、依頼者からは完璧を求められる。ここが一番しんどい。見えないところで傷つきながらも、今日もまた、「補正済み登記完了」のゴールを目指して、黙々と処理を進めていく。

それでも、また今日もメールを開く

この仕事をしている限り、「補正」との付き合いは終わらない。朝がくるたびに、またメールを開いて「今日はどんな修正か」と身構える。でも、最近ではちょっとした開き直りも生まれてきた。補正がある=仕事をしている証だと、無理やりこじつけてでも納得しないとやってられない。今日もまた、静かにキーボードを叩く。補正の世界へ、いってきます。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。