登記簿が暴いた後見の闇
朝から蒸し暑い。扇風機が唸る音だけが静かな事務所に響いていた。こんな日は、早めに仕事を片付けて帰りたい——などと思っていたのだが、現実は甘くなかった。机の上には山のような登記関係書類、そして、妙な違和感のある「後見登記ファイル」がぽつんと鎮座していた。
このファイルが、俺に今日一日とてつもない面倒をもたらすことになるとは、このときの俺はまだ知らなかった。
朝のファイルチェックで見つけた異変
日課のようにファイルをめくっていると、後見登記ファイルの一件に目が留まった。依頼人の氏名、住所、登記日付——一見、何の変哲もない。しかし、後見人の欄が空白だった。空欄? そんなはずはない。登記が完了しているのに後見人の記載がないなんて、ありえない。
しかも不自然なほど綺麗な空白だった。修正の痕跡もない。まるで最初からそこには何も記載されていなかったかのようだ。
後見登記ファイルの中の空白
過去の登記記録にアクセスしようにも、法務局のオンラインシステムはなぜかエラーを吐いていた。紙の副本を探すも、当該案件だけがきれいに抜け落ちている。
何かが削除されたのか、それとも最初から記録されていなかったのか。意図的な隠蔽か、単なるシステムトラブルか。こういうとき、ついつい昔読んだ探偵漫画のトリックを思い出してしまう。——ページごとすり替えたとか、インクで透けないように加工したとか。
サトウさんの冷静な観察
「これは、郵送時に差し替えられてる可能性もありますね」 後ろから声が飛んできた。例によって冷静、そして塩対応なサトウさんだ。机にコーヒーを置きながらも、その鋭い視線はファイルの一点を見逃さない。
「消印の日付と受付印の順番が逆です」 見ればたしかに、押印の配置が通常のパターンと違っている。言われなければ気づかないほどの違和感。やれやれ、、、また厄介な話になりそうだ。
昔の登記記録が語る過去
古い登記簿を引っ張り出してみると、今回の物件と同じ住所に、十数年前にも似たような後見案件が記載されていた。だが、そのときの後見人は今回の依頼人と同姓——どうも、家族間で繰り返し後見制度を利用しているようだった。
それ自体は珍しいことではない。しかし、登記上の時系列に矛盾があることに気づいた。過去の後見が解除された日付が、今回の後見開始日よりも「未来」になっていたのだ。
後見人と被後見人の不可解な関係
さらに戸籍を確認すると、被後見人とされていた老人は実際には三年前に死亡していた。となると、今回の登記は誰のためのものなのか。後見人の欄が空白である理由はここにあるのかもしれない。
まるで幽霊相手に後見登記が行われたような話だ。そんなバカなと思いつつ、思考はすでに一つの仮説へと向かっていた。
失踪した前任司法書士の足跡
過去の登記に関わっていた司法書士の名前を見て、胸騒ぎがした。数年前に急に廃業し、行方知れずになった人物だ。俺が司法書士会に入った頃にはすでに噂になっていた。「あの人は揉め事に巻き込まれたらしい」——そんな不穏な言葉を思い出す。
もしかすると、その人間の置き土産なのかもしれない。後見制度を利用した何らかのトリック——そして、記録を改ざんする仕組み。
記録にはない財産移転の痕跡
その後、法務局の別システムから入手できた抵当権の履歴に、不自然な財産移転の痕跡があった。登記上には出てこないが、確実に誰かが財産を動かしていた。
つまり、後見制度を利用して財産を一時的に幽霊名義にし、必要な処理を済ませたあと、その人物がいないことにして記録から消した——というわけだ。
依頼人の言葉と矛盾する登記内容
依頼人に直接確認すると、「ちゃんと書類は出しましたよ」と不安そうに答えた。だがその後の話がいけなかった。「あの時の先生に渡しましたから」 問題の司法書士はもうこの世にいないはずなのに、まるで最近会ったような言い方だった。
俺の背中に汗が流れた。話が、妙な方向へとねじれていく。
管理人室で見つけた鍵の束
登記物件に隣接するアパートの管理人室で、不自然なほど丁寧に封印された段ボールが見つかった。中には大量の登記関連書類、そして使い古された鍵の束が。
その鍵の中の一つが、件の物件にぴったりだった。そして部屋の中には、記録から消された登記者の遺品がそのまま残されていた。
司法書士協会の古い内部資料
司法書士協会に照会をかけたところ、かつての懲戒事案の中に、今回の物件と同一住所の案件が含まれていたことが判明した。前任司法書士が処理したが、苦情が殺到し、結局責任を取って業務停止になったという。
このときの後始末が完全には終わっていなかった。それが、今になって俺の手元に飛び込んできたというわけだ。
サトウさんが導いた推理の糸口
「この部屋、配電盤が違うんですよ」 またしてもサトウさんの一言が決定打だった。登記上は一世帯なのに、電力契約が二重になっていた。つまり、誰かが「誰にも知られず」住んでいたのだ。
これでつじつまが合う。登記は実体のない人間のために行われ、実際に住んでいたのは別の人物。その人物が影から財産を操作していた。
怪しい電話の正体と意外な黒幕
数日前、無言電話が数回あった。録音を再生すると、かすかに「しんどう先生、、、気をつけて」という声が聞こえた。声の主は、かつて登記に関わった補助者の女性だった。彼女は行方不明となっており、黒幕の正体を知っていたのだ。
そして、その黒幕が現在の依頼人の親族であり、過去に後見制度を悪用して不正取得を繰り返していた人物だったことが、地道な戸籍調査から明らかになった。
後見制度の穴と悪用の構図
今回の事件は、後見制度という「善意」を利用して、実体なき被後見人の名義で財産をコントロールし続けていた長年の構図だった。バレないように、そして記録を巧みに操作する方法も、前任司法書士から引き継いでいたのだろう。
俺はこの構造を、司法書士協会と法務局に正式に報告した。が、どこまで表沙汰になるかはわからない。
やれやれと言いながら最後のひらめき
翌日、サトウさんが一言だけ呟いた。「その補助者の女性、今は別の名前で保護されてるそうです」 俺は小さくうなずいた。彼女の告発がなければ、真実には辿り着けなかっただろう。
やれやれ、、、また一つ、知らなくてもよかった現実を見てしまった気分だ。
真相解明とその代償
結局、依頼人は登記詐欺未遂で告発され、数年越しの不正は明るみに出た。だが、被害者の何人かはすでに亡くなっており、完全な救済は叶わなかった。
後見制度の闇は深く、そして静かに人の隙間に入り込んでいく。
登記簿に残された正義の痕跡
登記簿の末尾に、小さく新たな記載が加わった。「後見登記取消」——それはたった一行の変更だったが、俺にとってはこの一件の重みをすべて背負わせる文字だった。
登記簿は、語らない。だが確かに、すべてを知っていた。