今日もレトルトを温めて終わる夜

今日もレトルトを温めて終わる夜

仕事終わりにキッチンに立つ気力が湧かない

「今日はちゃんとしたものを食べよう」と、朝の時点では思うんです。でも、事務所で一日中、登記だの相談だのに追われて帰ってくると、もう何もする気にならない。冷蔵庫を開けては閉じて、結局レンジで温めるだけのレトルトカレーに手が伸びる。「まあ、これでいいか」と言い聞かせながら、黙って食べる夜。そんな日が、気づけば週の大半を占めているのです。

業務に追われる日々で夕飯どころではない

最近では、依頼者の相談だけでなく、役所とのやりとり、登記の修正対応、締め切りに追われる書類の山…と、机の前から立つことさえ忘れる日もあります。昼食もコンビニのおにぎりで済ませ、あとはずっとパソコンに向き合い続ける。夕方には脳も体も限界。料理をするという選択肢は、そもそも頭に浮かびません。「夕飯はどうしよう」ではなく、「何を温めようか」になって久しいのです。

登記も相談も結局は人相手の消耗戦

司法書士の仕事って、実は人とのやりとりが中心なんですよね。依頼人の希望、事情、トラブル…全部人の感情が絡む。そのたびに気を遣い、言葉を選び、笑顔を作る。正直、疲れます。だからこそ仕事が終わったあと、自分に向けるエネルギーなんて残ってないんです。お湯を沸かすのも億劫で、湯せんすらせずレンジ任せ。人の心に向き合う職業の裏で、自分の心のケアが完全におろそかになっていると気づくのです。

効率化しても減らないプレッシャー

「もっと効率的にやれば時間ができるでしょ?」と言われることがあります。でも、現場はそんなに甘くない。一つ案件が片付けば、また次の依頼。電話もメールもひっきりなしで、余白が生まれる暇もない。結局、効率化しても新しいタスクがすぐ詰め込まれるだけ。だからこそ、夕飯の準備という“自分のための時間”がどんどん削られていく。レトルト食品の山は、ある意味で僕の“自炊する気力のなさ”の積み重ねなのかもしれません。

コンビニとレトルトで済ませる生活の落とし穴

「便利で助かる」と言い聞かせながら、コンビニとレトルトに頼りきった食生活。でも、ある日ふと「なんか味が全部一緒に感じるな…」と思ってしまったんです。どんなメニューも同じようにしか感じられない。体は満たされても、心が空っぽのまま。栄養バランスも偏っているのか、朝起きても疲れが取れない日が増えました。便利さに頼りすぎて、大切な何かを置き去りにしている気がしています。

便利さが心を麻痺させていく

最初は「忙しいから仕方ない」と思って始めたレトルト中心の食生活。でも、それが当たり前になりすぎて、「ちゃんと作ろう」という意志そのものが薄れてきた。麻痺です。料理って面倒だけど、そこに誰かのためとか、自分を大事にする気持ちが込められているはず。でも今の僕の食卓には、そういう温度がない。ただ温めただけの皿と、無言の夜。それが積み重なると、自分に対する興味さえ失っていくような怖さがあるのです。

食に無関心になるのは危険信号かもしれない

以前は味にうるさかったはずなのに、最近は「食べられれば何でもいい」と思ってしまう。これは単なる手抜きではなく、自己肯定感の低下にもつながっている気がします。味覚が鈍るというより、生きる実感がぼやけていくような。司法書士という仕事は「他人の問題を解決する」役割。でも、肝心の自分自身の問題には、ずっと見て見ぬふりをしているのかもしれません。

料理をする理由が見つからない

料理って、誰かと一緒に食べるから楽しいという部分があると思うんです。でも僕の食卓には、基本的に誰もいません。一人で黙々と作って、一人で黙々と食べる。だったらレトルトでいいや、となってしまう。料理のモチベーションは、「誰かのため」と「自分の楽しみ」。その両方が失われた状態では、手料理をしようという気力なんて、湧くわけがないんですよね。

誰かと食べる予定もない日常

「たまには誰かと飲みに行こうか」と思っても、気づけば予定が合わずに流れてしまう。友達も家庭を持ち始めて、誘うタイミングすら難しい。そうやって独りの時間が増えていく。職場ではずっと話してるのに、家に帰ると一言も声を発さない夜。料理をしようにも、誰かに見せるわけでもない。だから結局、冷凍庫のレトルトパスタをチンするだけ。それが習慣になると、「これが普通なんだ」と錯覚してしまうんです。

独身という言葉が重たく感じる瞬間

独身でいることに、昔は自由や気楽さを感じていました。でも今は、そこに「虚しさ」が加わってしまった。誰かと何気ない会話をしながら、夕飯を囲む。そんな当たり前のようで贅沢な時間を、気づけば何年も味わっていない。弁護士でも行政書士でもない、司法書士というニッチな職業に一人で向き合い、家ではレトルトカレー。まるで、自分の人生を「効率重視」で済ませているような、そんな切なさを感じるのです。

一人でいる自由と誰もいない寂しさ

「誰にも縛られない」という自由は確かにあります。でも、だからといって幸せかと言われると、口ごもってしまう。人と比べる必要はないけど、ふとした瞬間に襲ってくる孤独感には勝てない。食卓に誰かが座ってくれるだけで、きっとレトルトなんて出さなくなる。そんな想像をするたびに、「もうちょっと頑張ってもいいかな」と思うのですが、気づけばまたスーパーのレトルト棚の前に立ってる自分がいます。

つくる時間より横になる時間を選ぶ

実際問題として、料理をするためにはそれなりの体力が要ります。買い物、準備、片付け。今の自分には、そんな余力はありません。少しでも早くソファに沈み込んで、無音の部屋で目を閉じたい。それが一日の終わりのルーティンになってしまっている。「心地よい疲れ」なんて言葉、もう何年も感じていないかもしれません。

元野球部でももう体力には勝てない

学生時代、僕は野球部でした。毎日ヘトヘトになるまで走り込んで、それでもまだ練習した。でも今はどうでしょう。階段を上がるだけで息が上がる。運動不足と言われればそれまでですが、それ以上に“疲れが抜けない”んです。体力の衰えは、精神の余裕にも直結します。疲れてると、料理も、人付き合いも、全部が面倒になる。元野球部の看板を誇るどころか、もはや笑い話にもならないのが現実です。

40代疲れは翌日どころか週をまたぐ

正直、40代に入ってから疲労の“蓄積力”が桁違いです。一晩寝れば回復していたあの頃は遠い昔。今は、週の前半の疲れを引きずって週末を迎えるような状態です。だから週末こそ料理をしようと思っていても、気づけば外食か、やっぱりレトルトに手が伸びる。疲れを理由に選択を放棄している自分に、ちょっと嫌気が差すけど、それすらも「まあ仕方ない」で片づけてしまう。そんな毎日の繰り返しです。

そんな生活に慣れきってしまった自分が怖い

気づけば、レトルト中心の生活が「当たり前」になっていました。買い物はルーティン化し、料理のレパートリーはゼロ。人との会話も減り、自己管理もおろそかに。便利なはずの現代の生活が、逆に自分を不自由にしているように感じます。でもそれを変えるには、ちょっとした勇気とエネルギーが必要なんですよね。問題は、いまその気力が湧かないということ。それが、今いちばんの悩みかもしれません。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。