ひとつも笑えなかった朝に思ったこと
朝、事務所のドアを開ける手が重かった。誰に怒られたわけでもないし、大きな失敗をしたわけでもない。それなのに、何かがじわじわと溜まっていたのだと思う。目覚ましの音に無理やり引き戻された意識は、すでに笑顔を置き去りにしていた。出勤して机に座った瞬間、無数の書類と期限が頭を締めつける。「今日はやれる気がしないな」と思ってしまった時点で、もう心は半分折れている。それでも手を動かさないわけにはいかない。司法書士という仕事は、そういう“逃げられなさ”がある。
机の上の書類に追い詰められる感覚
書類に囲まれるとき、ふと思い出すのは高校時代のグラウンドだ。部室には汗と泥と笑い声があって、紙切れに悩むことはなかった。あの頃、失敗しても「ドンマイ」で済んだ。でも今は違う。一枚の添付書類を間違えただけで、全体の手続きがストップし、依頼人にも迷惑がかかる。ふとしたタイミングで、肩の力が抜けなくなるほど責任の重さを実感する。自分で選んだ道ではあるけれど、正直「これ以上は無理かもしれない」と思う瞬間もある。
ミスを見つけるのはいつも自分
提出直前のチェックで、印鑑の位置がズレていたのに気づいたのは自分だった。誰かが間違えたことを責めるわけじゃない。でも、結局は自分が直す。自分が再提出をかけ、時間を調整する。その繰り返しに、心が少しずつ擦り減っていくのが分かる。完璧なんて求められていないはずなのに、「完璧でなければならない」と自分に言い聞かせているのは、他ならぬ自分だ。
そのチェック、本当に必要だったのか
もう一度確認する。何度も、何度も。形式的な確認作業に意味があるのかと、自問することがある。けれど確認しなければならない。そういうものだからだ。理屈では割り切れないのに、割り切ったふりをして進めるのが、この仕事の“慣れ”なのかもしれない。だから、今日はもう笑えなかった。
事務員の「今日は帰ります」に救われる
夕方、事務員が「今日は帰ります」と声をかけてきたとき、不思議とホッとした。誰かが普通に、当たり前に自分の時間を持つ。それがなぜか、とても眩しく見えた。忙しそうにしていた自分に、気を遣ってくれたのかもしれない。でも、たぶんそうじゃない。ただ「帰りたいから帰る」。その素直さが、羨ましかった。
心の中では「お疲れさま」と言えたのか
声に出せばよかった。「お疲れさま」と。でも、なんだか言えなかった。自分が言ったら、情けなさがあふれそうで。それでも心の中では何度もつぶやいていた。独りになった事務所で、彼女が残していった紅茶の香りがほのかに漂っていた。誰かと一緒にいる時間って、貴重なんだなと、帰ったあとに気づくなんて皮肉だ。
独りの夕方がつらいのは仕事のせいだけじゃない
結局、独りがつらいのは仕事だけのせいじゃない。たぶん、自分自身の問題だ。気を張って、誰にも迷惑かけず、毎日をこなしていたら、誰かと笑うことさえ難しくなっていた。あんなに冗談好きだったはずなのに。今日の自分は、笑い方すら忘れていた。
他士業とのやりとりに疲弊する日々
電話をかければ、少し高圧的なトーン。メールを送れば、無機質な返信。もちろん全員がそうじゃないけれど、こちらが丁寧にしても、それが返ってくるとは限らない。時には軽んじられているように感じることもある。でも「感情は表に出すな」という自制が、日々の中で染み付いてしまっている。
丁寧にしても伝わらないときがある
ある行政書士からの連絡が、あまりにも横柄だった。やんわりとした言い回しで伝えたが、通じていない様子。そういう瞬間に、「もうどうでもいい」と心がざらつく。でも、こちらが崩れてしまったら終わりだという意識もある。だからこそ、ストレスは溜まっていく。笑顔は削れていく。
気を遣いすぎて自分を見失う瞬間
「失礼のないように」と心がけすぎて、自分の言いたいことを飲み込む日がある。それが何日も続くと、自分が何者か分からなくなる。相手の顔色ばかり見て、誰かの思惑通りに動いているだけのような気がして、ふと空しくなる。
「先生」と呼ばれることに違和感しかない
この肩書きに、最初からずっと馴染めなかった。「先生」と呼ばれても、自分は自分だし、心の中では不器用なままだ。相談を受けているときも、「本当にこれでよかったのか」と自問自答ばかりしてしまう。どこかで誰かの期待に応え続けることに、疲れ始めている。
誤解される肩書きがしんどい
「すごいですね」「偉いですね」と言われるたび、返事に困る。すごくも偉くもない。毎日、目の前の仕事に追われているだけなのに、勝手に“できる人”の枠に入れられてしまう。そしてそのイメージとのギャップが、静かにプレッシャーとなってのしかかってくる。
中身はただの孤独なおじさんなのに
家に帰っても誰もいない。料理も面倒で、コンビニの弁当で済ませる日々。外では「先生」、中ではただの45歳の独身男。その落差が激しくて、ふとした瞬間に笑えなくなる。テレビをつけても、心には届かない。笑い声が虚しく響くだけだった。
元野球部という過去にもすがれない
昔は「体力と根性」でなんとかなった。部活で学んだことが、今でも役に立つと思っていた。でも、社会に出てからの「正解のない疲れ」は、走り込みや声出しでは越えられない。あの頃の仲間も、いまは別の人生を歩んでいる。野球部だった自分は、もう過去のものになっていた。
笑いを忘れた日の過ごし方
疲れ切った日、何か楽しいことでもしようと考える余裕すらない。かといって、寝るだけの夜にはなかなか心が落ち着かない。せめて、自分を甘やかす何かがほしいと思った。
コンビニで買ったチョコパンだけが癒やし
帰り道、何も考えずに立ち寄ったコンビニで手に取ったチョコパン。甘くて、ちょっと懐かしい味がして、少しだけ心がほぐれた。誰かに会う気力はなくても、そういう小さな癒やしがあるだけで、なんとかなることもある。
気晴らしの散歩もむなしくて
夜風にあたりながら歩いてみたけれど、何も考えないことができなかった。むしろ、どんどん仕事のことが頭に浮かんできて、余計に疲れてしまった。気分転換がうまくできない自分が、少し情けなかった。
次の予約のことが頭から離れない
明日の予定、来週の期限。常に“次”を考えている。それが司法書士という仕事なのかもしれない。でも、今日だけは、何も考えずに眠りたかった。けれど結局、布団の中でも頭は働き続けていた。笑う余裕も、夢を見る余地もなかった。
この仕事に向いてる人って誰だろう
そもそも、自分はこの仕事に向いているのだろうか。そんな問いが、最近よく頭をよぎる。やるべきことをやるだけで精一杯で、自分のことを考える時間すらない。でも、それで本当に良いのだろうか。
正確で冷静で、でも人間らしくて
ミスをしないこと、感情を抑えること、それが当たり前とされる世界。でも、それだけじゃ人は壊れてしまう。心が動く瞬間がないと、人は長く続けられない。もっと、笑える日があってもいいはずだ。
自分がその条件に当てはまらない不安
正直、自分は完璧なタイプじゃない。気にしすぎてしまうし、引きずるタイプだ。それでもなんとかやってきたけれど、これから先もずっと続けられるのか、不安が募るばかりだ。
いつまで続けられるんだろうという問い
あと10年?20年?いや、明日すら見えない日もある。けれど、やめることもできない。依頼者が待っているし、生活もある。結局、今日も明日もやるしかない。だけど――今日はもう、笑えなかった。