戸籍にいない相続人
謎の相談者現る
その日、事務所にやってきたのは黒縁眼鏡の青年だった。喪服を思わせる地味な装いと、手にした封筒。第一声は「叔父の遺産について、ご相談したくて」。 私はうなずきながら椅子を勧めたが、どこか様子が妙だった。依頼というより、確認作業のような雰囲気だ。
不自然な戸籍附票
提出された資料に目を通していたサトウさんが、眉間にシワを寄せた。 「この戸籍、どこかで消されてますね。居住記録が途切れてる」 私はコーヒーに口をつけながら、嫌な予感を覚えた。サザエさんのエンディングみたいに、元に戻るかと思ったらそうはいかなかった。
遺産目当ての詐欺か
遺産は土地付きの古家と、わずかな預貯金。騙すには微妙な金額だが、それでも不審だ。 「あなた、被相続人の甥と名乗ってますが、戸籍上では存在していません」 青年は無表情のまま、「それが、問題なんです」と静かに言った。
消された長男の存在
数日後、除籍簿を取り寄せたサトウさんが一枚の写しを差し出した。 「昭和五十年に出生記録がある男児が一人。これ、依頼人じゃないですか?」 だがその名は、昭和五十二年の除籍で消えていた。まるで、最初から存在しなかったように。
昭和の転籍記録
私は本籍のある市役所にFAXで問い合わせた。返ってきた回答は意外なものだった。 「昭和五十一年に母子のみ転籍、父親側の筆頭者変更あり」 …つまり、家族関係の断絶があったということだ。司法書士の業務をしていると、紙の上の家族は実に脆い。
古びた分籍届の秘密
「分籍届、ありました」 サトウさんが突き止めたのは、古びた手書きの書類。理由欄には「父の虐待を避けるため」とあった。 そして驚くべきはその提出人の名前。依頼人の母親自身だった。つまり、子を守るために戸籍を切り離したのだ。
サトウさんの推理
「戸籍から除かれたのは、存在を消すためではなく、守るためだったんですね」 その言葉に、私はハッとさせられた。なるほど、詐欺ではなかった。ただし、それが証明できるかは別問題。 「やれやれ、、、面倒なことになってきたな」
母子手帳と実子の証明
鍵を握るのは、母子手帳と接種記録。そして小学校の卒業証明。 依頼人は一つひとつ丁寧に提出した。それは血の繋がりと記憶の証明でもあった。 「母が生きていたら、もっと早く相談できたんですが」と彼は呟いた。
登記申請書の裏に
相続登記の申請書を作成していたサトウさんが、ふと裏面を見て固まった。 「…これ、前の司法書士がメモを残してます」 走り書きされた文字には「相続人不在に非ず。調査継続要」とだけ記されていた。
遺言と相続人の真実
公正証書遺言には「甥に遺す」とあったが、法定相続人ではなかったため効力は弱かった。 だが、出生証明と生活実態の証拠が揃ったことで、家庭裁判所は特別縁故者としての認定を下した。 これにより、依頼人は正式に遺産を受け継ぐことになった。
裁判所で明かされた名
審理の場で依頼人の戸籍名が読み上げられた瞬間、彼は一瞬だけ涙を見せた。 「僕の名前、まだ残ってたんですね」 その姿を見て、私はなんとも言えない気持ちになった。
やれやれ僕の出番か
最後の書類提出を前に、私は一息ついて窓の外を見た。 夏の陽が事務所のガラスを焦がしている。野球部だった頃の夏も、こうして眩しかった。 「やれやれ、、、僕の出番はいつも最後だ」と独り言をつぶやいた。
最後のひと押し
法務局での登記完了確認。その場で私は最後の押印を済ませた。 依頼人は深く頭を下げ、「これでようやく、母も安心できます」と言った。 サトウさんは「次は忘れず戸籍を残してもらいましょう」と塩対応を忘れなかった。
本当の相続人が決まる時
この事件は、法に記されない人間の想いを再確認させるものだった。 記録は冷たく、時に不完全だが、それでも人の手で補えるものもある。 私は書類を整理しながら、司法書士という職業の妙な重さを再認識していた。
事務所に戻る二人の影
「今日は冷やし中華です」とサトウさん。 「暑い日にはやっぱりそれだね。ついでにビールも…いや、仕事中だったな」 笑いながら、私たちは事務所の階段を登っていった。
そして誰も異議を唱えなかった
最終登記後、誰からも異議は出なかった。 静かに、しかし確かに、一つの物語が終わった。 だが、私は知っている。きっとまた誰かが、記録の隙間から助けを求めてくることを——。