「大丈夫?」と聞かれて、言葉が出ない日々
「大丈夫?」と誰かに聞かれるたび、喉の奥が詰まったような感覚になる。心配してくれているのはわかる。でも、何がどう大丈夫じゃないのか、自分でもうまく言語化できない。司法書士という職業柄、いつも冷静に、理論的に、何かを説明することを求められてきた。でも、不思議なもので、自分の心の状態については、説明の仕方すらわからないのだ。「大丈夫です」と笑って返してしまう自分が、ますます情けなく感じる。
誰にも言えない疲れが、蓄積していく
この仕事は、誰かの人生の節目に立ち会うことが多い。それ自体は誇りでもある。でも、そのぶん感情を抑える場面も多い。相続で揉めている家族、離婚で疲れ果てた依頼人、老後の不安を抱える高齢者。みんな心に何かを抱えてやってくる。そして、それを淡々と処理する役割を求められる。「感情を出さない人ほど信用される」と教えられてきた。だからこそ、胸の内に溜まった疲れや不満は、誰にも言えないまま積み重なっていく。
仕事の内容よりも、人間関係の消耗がつらい
書類の作成や法的な判断は、慣れてしまえばある程度は機械的にできる。でも、依頼人とのやりとりや、他士業との調整はそうはいかない。相手が感情的なときほど、こちらは冷静でいなければならない。そうやって自分を押し殺し続けるうちに、ふとした瞬間に疲れがドッと押し寄せる。とくに理不尽なクレームを受けた日は、帰り道で小さくため息をつきながら「自分、何やってるんだろう」と思ってしまう。
「頼れる人がいない」と感じる瞬間
事務所には事務員が一人いるけれど、あくまで業務上のパートナー。弱音を吐ける相手ではない。かといって、同業者に話しても「まあそういう仕事だよね」と返されるだけ。家に帰っても誰かが待っているわけじゃない。静まり返った部屋で、冷めたインスタント味噌汁をすすりながら、「このままで大丈夫なのか」と自問自答する。そんな夜が、年々増えてきている。
言葉にできない理由は、案外シンプル
「大丈夫?」と聞かれても、返す言葉が見つからないのは、単純に余裕がないからだと思う。心のスペースに、言葉が入り込む隙間がない。自分の状態を把握することにすら、エネルギーが必要なのだ。そしてそのエネルギーが、慢性的に枯渇している。だから、言葉に詰まってしまう。これはきっと、甘えでも怠慢でもない。そう理解してから、少しだけ自分を責める回数が減った気がする。
「何がしんどいの?」と聞かれても、自分でもわからない
先日、珍しく友人と電話で話す機会があった。「最近どう?」と聞かれて、しばらく黙ってしまった。「仕事が忙しい」とか「人手が足りない」とか、言おうと思えば言えた。でも本音は、「もう何がしんどいのか、自分でもよくわからない」だった。そのまま口に出す勇気がなくて、「まあまあ」と笑ってごまかした。相手はそれ以上聞かなかったけど、通話後、妙に虚しさだけが残った。
自分の弱さをさらけ出すのが怖い
人に頼ること、自分の弱さを見せることは、恥ずかしいという気持ちがまだ根強い。とくにこの仕事では、「しっかりしていること」が一つの信頼につながる。だからこそ、崩れた姿を見せたくない。だけどその反動で、誰にも本音を言えなくなる。いつの間にか、自分の感情の出口がふさがってしまっているのだ。
司法書士として働く現実と孤独
地方で小さな事務所を構えてから、十数年が経つ。開業当初は夢があった。「自分の力でやっていける」と。でも現実は、思っていたより地味で、孤独だった。忙しさに追われる日々のなかで、誰とも深く関わらずに過ごす時間が長くなっていった。「一人でやる自由」は、裏を返せば「一人で抱える責任」でもある。
登記は人間関係だ、なんて誰も教えてくれなかった
登記業務と聞くと、淡々と書類を処理するイメージがあるかもしれない。でも実際は、人と人の関係に深く関わる仕事だ。土地を巡る争い、家族内の不信感、事業承継にまつわる複雑な背景。法的な知識よりも、人間関係の調整力が問われる場面が多い。何気ない一言が火種になりかねない緊張感の中で、常に気を張っていなければならない。
依頼者と事務所の板挟み
最近あったのは、不動産の名義変更で揉めた案件。依頼者は感情的で、こちらが説明しても納得しない。一方、事務所の対応にも限界があり、事務員とのやり取りもギクシャクする。どちらの立場も理解できるだけに、どっちにもはっきり言えず、結局自分が間に挟まれて疲弊してしまった。
「感謝される」より「責められる」方が多い
この仕事をしていて一番悲しいのは、うまくいった時ほど「当然」と思われ、トラブルがあった時だけ「なんでこうなったのか」と責められること。感謝の言葉よりも、苦情や不満の声の方が耳に残る。信頼を築くには時間がかかるのに、崩れるのは一瞬だ。
独立しても、自由はない
「自分でやるなら自由でいいよね」と言われることがある。確かに上司もいないし、出勤時間も決められていない。でも実際は、依頼人の都合に合わせることが多く、夜間や土日の対応も珍しくない。自由に見えて、実は全然自由じゃない。
働く時間を選べるどころか、夜も休日も電話が鳴る
ある日曜日の朝、やっとゆっくり寝ようと思ったら、携帯が鳴った。相続の相談で、「今日中に来てほしい」とのこと。断れない自分がいて、結局その日も出勤。昼ご飯はコンビニのおにぎり1個。そんな生活が当たり前になっている。
言葉にしないと、誰にも伝わらない
自分のしんどさや不安を、誰かに話すこと。それがどれだけ大切か、頭ではわかっている。でも、実際にはなかなかできない。それでも、少しずつでも言葉にしていかないと、本当に誰にも伝わらない。沈黙は、自分を守る鎧でもあるけれど、同時に孤独を深める壁にもなる。
言わなきゃ伝わらない。でも言う気力がない
「話してくれてよかった」と言われることがある。でもそれは、話すまでに相当なエネルギーが必要だったということでもある。言葉にするだけで、数日分の体力を使ったような疲れが襲ってくる。だからこそ、「黙ってやり過ごす」ほうが楽に思えてしまう。
「大丈夫じゃない」と言えた時に、少しだけ楽になる
先日、何気なく「ちょっと最近、しんどいんだよね」と事務員に言った。驚かれるかと思ったら、「ですよね…私もそう思ってました」と返された。それだけで、肩の力が少し抜けた。「言っていいんだ」と思えた瞬間だった。
それでも、まだ続けている理由
こんなふうに弱音ばかり吐いていても、それでも仕事を続けているのは、やっぱり誰かの役に立てることがあるからだと思う。たまに届く「ありがとう」の言葉、それが心のどこかで響いている。きっと、それだけで救われている自分がいる。
ふとした一言に救われた日のこと
昔、相続登記を担当したご高齢の女性から、お礼の手紙をもらったことがある。「先生の対応で、安心して眠れました」と書かれていた。それを読んだとき、不覚にも涙が出た。「自分の仕事にも意味があるんだ」と実感できた数少ない瞬間だった。
「誰かの役に立っている」と思える瞬間
すぐには気づけないけれど、日々の業務の積み重ねが、誰かの人生の助けになっている。その実感を持てた時だけ、もう少しだけ頑張ってみようと思える。自分のペースでいい、言葉が出ない日があっても、立ち止まりながらでも前に進めばいい。そう思えるようになった。