事務所の椅子にしか居場所がない気がして

事務所の椅子にしか居場所がない気がして

事務所の椅子に戻るたびに感じる安心と虚しさ

朝、事務所のドアを開けて真っ先に目に入るのが、自分の椅子。誰もいない空間にぽつんとあるその姿に、妙な安心感を覚えるのはどうしてだろう。家に帰っても誰も待っていない。でも、あの椅子だけは毎日、変わらず僕の帰りを待っている気がする。忙しさの中に埋もれて、自分が何のために働いているのか見失いそうになるときも、椅子に座って深呼吸をすると、不思議と気持ちが落ち着く。けれど同時に、こんな生活でいいのかという虚しさも胸をよぎる。

あの椅子だけは僕を裏切らない

椅子は、嘘をつかない。僕の疲れた背中を黙って受け止め、何も言わずにそこに居てくれる。誰かに文句を言われることもないし、気を使うこともない。ただ、そこにあるだけ。それがどれほど心の支えになっているか、正直、他人には理解されないかもしれない。事務所の椅子にしか、自分の居場所がないと感じること自体、ちょっと情けない。でも、事実だ。

独身中年司法書士と中古の事務椅子の深い関係

今の椅子は、前の事務所が廃業するということで、格安で譲ってもらった中古品だ。最初は「とりあえず」のつもりだったのに、気づけば10年。体に馴染み、僕の動きを全部覚えてくれているかのようなフィット感。パートナーがいない僕にとっては、ある意味この椅子がいちばん付き合いの長い「相棒」かもしれない。少しギシギシ音がするけど、それもまた愛嬌のひとつだ。

10年座って馴染んだお尻の形に救われている

椅子のクッションが少しへたってきて、自分のお尻の形がしっかり残っている。普通なら買い替えどきなんだろうけど、その“へたり”にこそ安心感がある。新しい椅子じゃ、きっとこの落ち着きは得られない。疲れているときも、イライラしているときも、この椅子に座って「ふぅ」とため息をつく。それが僕の日常であり、救いの時間でもある。

休みの日に椅子のことを考えてしまう自分がいる

世間では「休みの日は仕事を忘れてリフレッシュを」と言うけれど、僕の場合は違う。日曜日に家でぼんやりしていても、気がつけば事務所の椅子のことを思い出している。あの感触、あの座り心地。ちょっとおかしいかもしれないけど、仕事のことより椅子のことが恋しくなる。これはもう、依存に近いのかもしれない。

椅子ロス症候群 それはある意味依存かも

長期休暇をとったとき、ふと事務所の椅子のことが頭に浮かんだ。「元気にしてるかな」なんて思ってしまう自分がいた。冗談のようで本気だ。旅行先のホテルでも、どこか落ち着かない。どんなに高級な椅子に座っても、あのギシギシと軋む音が聞こえないと、心が落ち着かない。こんな風に“物”にここまで執着している自分が、少し怖くなる。

カフェで高そうな椅子に座っても落ち着かない理由

たまにはオシャレなカフェで仕事でもしてみようと、ノートパソコンを持って出かけたことがある。クッションも良くて背もたれもしっかりしてる椅子だったのに、なんだか落ち着かない。周囲の視線も気になるし、椅子が“僕の椅子”じゃないってだけで、妙に不安定になる。やっぱり自分の居場所ってのは、他人が用意したオシャレさとは違うんだと思った。

座り心地より“自分の椅子”感が大事だと気づいた瞬間

人間って、座り心地よりも“慣れ”に安心を感じるんだと実感したのは、まさにこの時だった。新しくて機能的なものより、ボロくても自分に馴染んだものの方が、ずっと落ち着く。それって、仕事にも通じる気がする。効率だけで回せない。少し不器用でも、自分に合ったやり方がある。僕にとっての椅子は、その象徴みたいなものだ。

誰にも会いたくない朝 椅子だけが待っていてくれる

朝起きて「今日も誰にも会いたくないな」と思う日がある。いや、むしろそういう日が多い。そんなときでも、事務所の椅子だけは文句を言わずに僕を迎えてくれる。仕事を始める前に、椅子に腰かけて一息つく。その数分だけが、僕にとっての静寂であり準備運動のようなものだ。

声をかけてくるのは椅子のきしむ音だけ

人の声がしんどく感じる日でも、椅子のギシギシという音は不思議と嫌じゃない。むしろその音があるから、今日もこの場所に来られたんだと思える。事務員の彼女が来る前の、朝のひととき。誰とも話さず、椅子に沈み込む時間。それが僕にとっての癒しであり、唯一の“朝活”かもしれない。

今日はこの椅子で何時間戦えるだろうか

朝、椅子に座った瞬間に考える。「今日はこの椅子に何時間座ることになるだろうか」と。好きで座っているわけじゃない。業務が多すぎて、座るしかないのだ。それでも、戦う場所としてこの椅子があるからこそ、まだ踏ん張れるのかもしれない。椅子がなければ、僕は崩れている。

同僚も恋人もいないけど この椅子はいる

司法書士として独立してからというもの、人と深く関わることが減った。友達も減った。恋人もいない。でも、この椅子だけは、ずっとそばに居てくれる。必要以上に人に期待しなくなった代わりに、椅子に対しては妙に愛着を感じてしまっている。寂しさを紛らわせてくれる存在なんだろう。

パソコンより先に椅子を立ち上げる朝のルーティン

出勤すると、まず椅子を回して、引き出して、ポンと腰を下ろす。それからようやくパソコンの電源を入れる。この順番が、僕にとっての「仕事の始まり」。椅子がなければ、スイッチも入らない。たかが椅子、されど椅子。僕の生活のリズムの中心には、いつもこの椅子がいる。

この椅子にしがみつく理由と手放せない理由

仕事が嫌になって辞めたくなるときもある。でも、椅子に座ってしまえば「もうちょっと頑張るか」と思えてしまう。自分にとって、この椅子はもはや仕事道具以上の存在だ。過去の自分も、未来の不安も、全部この椅子が吸収してくれている気がする。

仕事が辛くても椅子に座れば何とかなると思える

トラブル対応、登記の修正、クレームの電話。しんどい日々の連続だけど、椅子に深く座って「よし」と一息つくことで、なんとか立て直してきた。大げさかもしれないけど、僕にとっては一種の「精神安定剤」みたいなもんだ。逃げ場ではなく、立て直す場所。

クライアントと目を合わせる前に椅子と目を合わせる

来客前、緊張する時間に、僕は一度椅子に座り直す。目の前のクライアントと話す前に、まずは自分を整える。それが椅子の上での一呼吸。だからこの椅子とは、もはや一心同体なのだ。

椅子の先にある未来をどう想像していくか

いつかこの椅子を手放す日が来るのだろうか。それとも、定年もないこの仕事を続けながら、文字通り“最後の日”までこの椅子に座り続けるのか。そんなことを考えるようになった自分に、また少し寂しさを感じる。

この椅子に座り続けて10年後の自分は

同じ場所、同じ椅子、同じ悩み。10年後の自分も、きっと同じように座っているのかもしれない。でも、そうであってほしくない自分もいる。何かを変えたいという気持ちは、まだどこかにある。

本当に居場所を見つけたいなら椅子を離れないといけないかも

本当の意味での「居場所」って、椅子の上にあるものじゃない気もする。人とのつながりだったり、自分の価値を感じられる瞬間だったり。そういうものを取り戻すには、思い切って椅子から立ち上がらなきゃいけないのかもしれない。

椅子は道具だけど感情を預けすぎてしまう

椅子はただの家具だ。でも、感情を預けすぎると、それが人間関係の代わりになってしまう。それって、危うい状態だと思う。僕が本当に向き合うべきものは、椅子じゃなくて人間かもしれない。

最後に椅子を離れる時 きっと泣くと思う

それでも、いつかこの椅子と別れるときが来たら、たぶん泣くと思う。10年以上の重みが詰まっているから。僕の人生の一部だったことは間違いない。そして、その時は、少しだけでも誇れる自分になっていたいと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。