自由業って自由そうでいいですねと言われて笑えなかった日

自由業って自由そうでいいですねと言われて笑えなかった日

自由業は本当に自由なのかと問われて

「自由業って、いいですね。好きな時間に働けて自由そうで」。そんな言葉を言われた日、私は少しだけ微笑んだふりをした。でも心のなかでは、苦笑いすら出なかった。自由業とひと口に言っても、実際には時間に縛られ、責任に追われる日々がある。朝は早く、夜も遅く、土日も祝日も電話一本で予定は消し飛ぶ。そもそも「自由」って、そんなに甘くない。

好きな時間に働ける=ずっと働いている

よく誤解されるのが、「自由業は自分の好きな時間に働けて楽」という幻想だ。確かに誰かに命令されることは少ないけれど、それと「楽」かどうかは別問題だ。好きな時間に働けるというのは、裏を返せば「いつでも働ける」状態。つまり、仕事を断ち切るタイミングを自分で決めない限り、仕事が終わらない。結果、ずっと働いてしまうことになる。これは自由ではなく、自己責任という名の鎖だ。

電話は鳴らないと不安 鳴るとプレッシャー

静かな日。電話が鳴らない日。そんな日は不安になる。「仕事、ちゃんとあるのかな?」と。しかし、ひとたび鳴れば、今度は胃がキュッと締まる。「あれか?補正か?ミスか?」と身構えてしまう。電話が鳴らなければ不安、鳴ったらプレッシャー。この矛盾と付き合いながら、私は毎日を過ごしている。まるでサイレンが鳴るか鳴らないかで命を賭けるような日々だ。

休みの日に限ってトラブルは起こる

本当に不思議なことに、「今日は久しぶりに何もないな」と思っていると、何かが起こる。登記の補正、連絡ミス、あるいはお客様の急な変更依頼。なぜか休みの日に限ってそうした出来事が起こるのだ。これはきっと、世の中の神様が私の休日を狙って試しているとしか思えない。予定を空けると、そこに仕事が滑り込んでくる。結局、完全な「休み」なんてこの仕事にはないのかもしれない。

自由を手に入れて縛られたもの

会社勤めをやめて、自分で事務所を構えたとき、「やっと自由になれた」と思った。でも、気がつけば手に入れたはずの自由に、自分が首を絞められていた。時間の裁量、働き方の決定権、何もかもが自分の手にあるというのは、気楽なようで重たい。それは「誰も助けてくれない」という孤独にもつながっていた。

全部自分で決められる地獄

開業当初、全てを自分で決められるのは魅力に思えた。スケジュール、報酬設定、広告の出し方、事務員の採用…。でも現実は、迷いの連続だった。何を選んでも正解が見えない。誰かに聞きたくても、相談する相手がいない。「自由」は選択肢が多いという意味でもある。だからこそ、迷い続け、責任を背負い続ける地獄に近かった。

相談できる相手がいないという孤独

事務員を雇ってはいるけれど、すべての判断や責任を共有できるわけじゃない。愚痴をこぼす相手もおらず、家に帰っても誰かが待っているわけでもない。決裁者であることは、同時に「相談者不在」ということでもある。コロナ禍を経て、孤独の重みがさらに増した。仲間というより競争相手が多いこの業界で、信頼して腹を割って話せる人は、正直ほとんどいない。

言葉の刃は軽やかにやってくる

「自由でいいですね」という言葉は、何気ない日常のなかで、ふいに差し込まれる。悪気がないのはわかっている。それでも、心がざらつく。まるで笑顔の仮面をつけながら、鋭利な刃を差し出されるような感覚。「自由」という言葉が、どれだけ重たくて、どれだけ寂しいものなのか、簡単に理解されることはない。

自由でいいですねの裏にあるもの

「自由そうでいいですね」と言われると、自分がいかにも気楽な暮らしをしているように見られていることに気づく。でも、実態はまったく違う。毎月の売上に頭を悩ませ、確定申告や各種支払いに追われる日々。スーツの奥にはいつも胃薬がある。「自由」という言葉の裏に隠れた現実を知ると、それがどれほど無神経に聞こえるかがわかってくる。

お金の不安も予定の不安も毎日抱えている

サラリーマン時代のような「安定収入」はない。売上が上がらなければ、生活が直接揺らぐ。それがプレッシャーになり、無理な仕事も断れなくなる。予定を立てることすら怖くなることがある。体調を崩せば、その分収入も減る。それでも、誰も補償してはくれない。毎日が綱渡りのような感覚だ。

予定が空いているとヒマだと思われる

不思議なことに、予定を空けておくと「ヒマそうですね」と言われる。だが、実際は「空けておいている」だけなのだ。急な対応に備えるため、あえて空けている。むしろ空いているほうが、神経を使っている。けれど、それは他人には伝わらない。この「見えない努力」が、もっとも報われにくい部分かもしれない。

自由業の現実と元野球部の自分

高校時代、私は野球部で汗を流していた。毎日泥まみれになって、監督の罵声を浴びながらもバットを振った。あの頃は、「努力すれば結果が出る」と信じていた。でも、司法書士としての現実は、そう甘くはなかった。努力しても報われないことのほうが多いのだ。

努力すれば報われるはずだった

深夜まで書類を整え、休日も顧客対応を優先してきた。講習会にも通い、制度改正にも目を通すようにした。それでも、仕事が増えるわけでも、感謝されるわけでもない日々が続く。成果が見えづらい業務の中で、何を目指せばいいのか分からなくなる瞬間もある。努力が正解に繋がるとは限らない世界なのだ。

けど、努力しても空振りに終わる

一件の仕事に全力で向き合っても、「ありがとう」の一言もなく終わることもある。問い合わせが来て期待しても、見積り段階でフェードアウトされることも珍しくない。期待して空振り。これを繰り返すと、心の中に小さなひびが入ってくる。そんな自分を励ますのは、案外難しい。

野球部のノックよりもキツい毎日

あの頃のノックは、確かにキツかった。でも、あれは終わりがあった。今の仕事は終わりが見えない。どこまで頑張れば「合格」なのかがわからない。体より、心が削れていく。元野球部の根性で乗り切ろうとしても、ふとした瞬間に、空を見上げてため息が出る。誰も見ていないグラウンドで、一人黙々とボールを拾っているような気分だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。