朝の始まりがすでにしんどいという現実
毎朝、目覚ましが鳴った瞬間に思う。「ああ、また今日も始まるのか」。司法書士としての仕事に誇りがないわけじゃない。でも、もう10年以上やってるのに、いまだに「向いてないんじゃないか」と思う日がある。いや、むしろ年々その思いが強くなっている気さえする。元野球部で朝には強かったはずの自分が、今や布団の中で葛藤している。そんな朝の自分に、ふと笑えてしまう時もある。でも、その笑いの裏には、ちょっとした絶望も混じっているのだ。
スーツを着た瞬間に重くなる心
スーツを羽織る。鏡に映るのは、寝癖を直す気力もないおっさん。事務員さんが来る前に出勤して、少しでも仕事を進めようと思うのに、身体が思うように動かない。正直、今日もやる気が湧かない。たぶん、向いてないんだろうな。でも、辞めたらどうする?食っていけないし、今さら他にやれることもない。スーツの重さは、生地のせいじゃなく、心の重さなのかもしれない。
依頼があることのありがたみと重さ
依頼があるのはありがたいことだ。地方のこの町で、細々とでも仕事があるというのは恵まれている。でも、ありがたいという気持ちと同じくらい、「またプレッシャーが来た」と思ってしまうこともある。ミスは許されない仕事。間違えたら、自分だけじゃなく依頼人の人生にも影響が出る。そんな重責を毎日抱えているからこそ、「向いてないのかも」と思ってしまうのだ。
いつもの道がいつも以上に遠く感じる
事務所までの道。自転車でたった10分の距離が、今日は異様に長く感じる。信号待ちでふと「電車に乗ってどこか遠くに行ってしまいたい」と考えることもある。学生時代、グラウンドへ向かう道はワクワクしてたのに、今は逆に気が重い。目の前に広がるのは、終わりの見えない「日常」という名の戦場だ。とにかく、今日もまた一日が始まる。
出勤前に考える「逃げてもいいんじゃないか」
玄関を出る直前、何度も思う。「今日は休んじゃおうかな」。風邪でもないし、特に大きな予定もない。でも、心が限界に近い。仕事が嫌いなわけじゃない。人の役に立てることにはやりがいも感じている。でも、この精神的な消耗に見合う何かがあるのか、ふと疑問になる。逃げてもいい理由を探してしまう自分が、情けなくて仕方がない。
野球部時代の朝練よりつらいってどういうこと
高校時代、野球部の朝練で毎朝5時に起きていた。それはそれでキツかったけど、仲間と一緒だったし、笑いもあった。今は違う。朝からひとりでパソコンの前に座って、数字や書類とにらめっこ。声を出すのは電話対応くらい。あの頃の「きついけど楽しい」は、今の「きつくて孤独」とは比べ物にならない。もう、あの時の元気はどこにも残っていないのかもしれない。
それでも出勤してしまう自分が悔しい
それでも玄関を出て、事務所に向かってしまう。逃げる理由は山ほどあるのに、結局は真面目に向かってしまう自分がいる。誰も褒めてくれないし、感謝もされない。でも、仕事だから、やらなきゃいけないから。そんな自分がちょっと悔しい。「もうやめてもいいんじゃないか」と思いながらも、また今日もドアを開ける。その繰り返しが、もう何年も続いている。
書類と向き合う時間が自問自答の時間になる
一度机に向かってしまえば、身体は勝手に動く。けれど、心は違う。ふとした瞬間に、「これ、いつまでやるんだろう」と思う。登記簿、書類、不動産の図面…どれも大事な仕事だけど、没頭すればするほど、自分の感情は置き去りにされていく。書類を見ながら、自分の人生を見つめ直してしまう瞬間があるのは、司法書士ならではの業かもしれない。
本当に向いてるのかとペンを止めてしまう瞬間
書類をチェックしているとき、ふと手が止まる。チェックミスがないか、慎重に見直しているはずなのに、意識がどこかへ飛んでいる。「これ、俺じゃなくてもできる仕事なんじゃないか?」と、急に不安になる。正直、器用な人間じゃない。スピードも速くないし、効率も悪い。それでも、なんとかやってきた。でも、その「なんとか」がずっと続くのかと思うと、気が遠くなる。
間違えられないというプレッシャー
司法書士の仕事は、一つのミスが命取りになる。日付を一日間違えただけで、取引が滞ることもあるし、依頼人からの信頼も失う。だからこそ、慎重になりすぎてしまう。でも、その慎重さが時に自分の心を締め付ける。緊張の糸をずっと張りっぱなしにしているような感覚。それに慣れたつもりでも、どこかで限界は来る。ミスを恐れる毎日は、消耗が激しい。
正確さよりも先に心が折れそうになる
どれだけ正確に仕事をしても、心が疲れていては集中力も落ちる。精神的に参っていると、ケアレスミスも増える。そんな自分に気づいたとき、「もう限界かもしれない」と思ってしまう。正確さが命の仕事で、心の弱さが命取りになる。それはまるで、完璧を求められる中で、完璧であることに疲弊していくようなジレンマだ。
自分の選んだ道なんだよなという諦めにも似た納得
向いてないと思いながらも、気がつけば10年以上が経っている。「じゃあ、何で続けてるの?」と聞かれても、うまく答えられない。ただ、いつの間にか、これが自分の「道」になっていた。それが正解だったかどうかは分からないけど、今さら戻れない。向いてるかじゃなくて、「続けてきたから」やっている。それって悪いことなのか…そんな問いが毎年のように頭をよぎる。
向いてるかじゃなくて続けてるか
向いてるかどうかは、もはや重要ではないのかもしれない。「向いてない」と思いながらも、今日も仕事をしている。それは、ある意味での適性かもしれない。続けることの意味、続けざるを得ない現実、その中でどう折り合いをつけていくか。司法書士という仕事は、そういう自分との戦いでもある。毎朝、心が折れそうになりながらも、なんとか机に向かう日々。
他の道が見えないのは自分のせいか
「他の仕事だったら楽だったのかな」と思うことはある。でも、結局のところ、どこに行っても自分の性格がついて回る。慎重で不器用で、でも真面目すぎる性格。それがこの仕事を続けさせているのかもしれない。他の道が見えないのは、自分がそれを探す余裕も勇気もなかったからかもしれない。だからこそ、「向いてないかも」と思いながらも、ここにいる。