今の仕事をしていてふと浮かぶ次の選択肢
司法書士として十数年、地方で細々と事務所を営んできたけれど、最近ふとした瞬間に「次の仕事」が頭に浮かぶ。例えば、依頼人と電話で揉めたあと。あるいは法務局で待ち時間にうんざりしているとき。仕事そのものが嫌いなわけじゃない。でも、「このままでいいのか」という不安がどこかにまとわりついていて、気がつけば別の仕事に想いを馳せている。
きっかけは忙しさと報われなさだった
きっかけはたぶん、忙しさと報われなさの積み重ねだ。登記業務も相続も、どれもやりがいのある仕事ではあるけれど、依頼者に感謝されることは稀だし、報酬も年々薄く感じる。事務員の給料や事務所の家賃を払い終えると、手元にはあまり残らない。働いても働いても「もう少しだけ余裕があれば」と思う日々。そうした中で、「別の仕事ならどうなんだろう」と考えたのが始まりだった。
誰にも言えない転職サイトのブックマーク
ある日、誰に言うでもなく転職サイトをブックマークした。司法書士という肩書きに縛られながらも、心は自由を求めているのかもしれない。飲食業、農業、Web業界……関係のない職種ばかりを検索してしまう自分がいる。もちろん実際に転職する勇気なんてない。でも、もしこのページを誰かに見られたらどうしよう、と思うくらいには、本気で「次」を意識している。
「逃げ」じゃなくて「探し」なんだと思いたい
何かから逃げたくて転職を考えているわけじゃない。少なくともそう思いたい。むしろ、自分に合った働き方や生き方を探しているのだと自分に言い聞かせている。「逃げ」のように見える選択も、本人にとっては「前進」だったりする。今のままでも生きてはいける。でも、ふとしたときに心が軽くなるような仕事に出会えるなら、それはそれで悪くないのかもしれない。
司法書士という肩書きへのしがみつき
正直、「司法書士」という肩書きがなければ、今の自分には何も残らないような気がしている。この資格がなければ、自分にどれだけ価値があるのか、自信がない。だからこそ、「次の仕事」を考えても、すぐに「いや、無理だな」と引き返してしまう。肩書きに頼らざるを得ない人生を、自分で選んできたのか、それともいつの間にか巻き込まれてしまったのか……。
資格があっても守れない生活がある
司法書士という国家資格を持っていても、それだけで生活が安定するわけではない。地方では特に仕事の取り合いもあるし、顧客との信頼関係を築くのにも時間がかかる。毎月の固定費とプレッシャーは重くのしかかり、それだけで胃が痛くなる。資格を取ったあの日には想像もしていなかった「経営者」としての孤独が、ここにはある。
肩書きが立派でも心が折れる瞬間
「先生」と呼ばれることもあるけれど、実際はペコペコと頭を下げることの連続だ。依頼人の都合に振り回され、法務局の理不尽な対応に悩まされる。事務所では書類の山に埋もれ、ミスすれば責任はすべて自分が背負う。そんな毎日を繰り返していると、ふと「自分は何のためにこの仕事をしているんだろう」と立ち止まってしまう。
「先生」って呼ばれても空っぽな自分
「先生」と呼ばれるたびに、どこかむずがゆい気持ちになる。尊敬なんてものは建前で、相手はこちらを便利な手続き代行屋としか見ていないのではないか。実際、相談だけして何もしない依頼人も多い。そんな現実の中で、自分の存在価値を見失いかけている。誇りを持ってやってきたはずの仕事なのに、今はただの義務になってしまっている。
次の仕事に思いを馳せる夜
夜中にふと目が覚める。明日の段取りを考えていたはずが、気づけば全く関係のない仕事のことを想像していたりする。気持ちだけは自由にいろんな世界を旅している。現実逃避と言われればそれまでだけれど、それでもそうした妄想の時間が、今の自分をなんとか支えてくれているような気がする。
なぜかYouTubeで農業やカフェ経営を調べてる
最近、なぜかYouTubeで農業やカフェ経営の動画を見ることが増えた。スローライフとか、自分で作った野菜を売る暮らしとか。たぶん、効率ばかりを求められるこの仕事から離れて、もっと人間らしい生き方がしたいという願望なんだと思う。土に触れている人の顔って、なんだか穏やかに見える。そんなことを思う自分に驚きながら、動画を次々と再生している。
もしも司法書士じゃなかったら何をしていたか
もしも司法書士じゃなかったら、自分は何をしていただろう。大学時代に戻れたら、別の道を選んでいたかもしれない。教師になっていたかもしれないし、スポーツ関係の仕事もいいなと思っていた。あの頃の自分に、今の自分の姿を見せたら、どう思うだろうか。「まあまあ頑張ってるじゃん」と言ってくれればいいが、正直、自信はない。
野球部時代の仲間の姿と今の自分の対比
地元に帰ると、昔の野球部の仲間と会うことがある。トラック運転手になったやつ、地元で魚屋を継いだやつ、専業主夫になったやつもいる。みんなそれぞれ苦労しながらも、どこか楽しそうに見える。自分だけが仕事に縛られ、笑う余裕もなくなっている気がして、少し寂しくなる。あいつらは「次の仕事」なんて考えなくても、今をちゃんと生きてる。そういう姿に、正直ちょっと嫉妬している。
現実との間で揺れる感情
どれだけ妄想をしても、現実はそう簡単に変わらない。事務所をたたむ勇気もなければ、新しいことを始める資金もない。それでも、心のどこかで「もう限界かもしれない」と思っている自分がいる。踏み出すのも怖い、留まるのもつらい。その狭間で揺れ続けている。
事務員の給与と事務所の家賃と
毎月の給与支払い日が来るたびに、胃がキリキリする。事務員の給与を守るために、自分の報酬を削るのはもう慣れたけど、ずっと続けられるわけじゃない。事務所の家賃、光熱費、備品代……数字を見るのが怖くなる。それでも、辞めたくても辞められない。責任という鎖は思ったよりも重い。
次の仕事を考えると背中が重くなる
「次の仕事」と聞くと、夢や希望よりも、むしろ重圧を感じる。資格が要るのか、生活できるのか、人間関係はうまくいくのか。考えれば考えるほど、「やっぱり今のままでいいか」と思えてしまう。でも、それは前向きな納得じゃない。単なる妥協だという自覚があるからこそ、心がザワつく。
でも希望というより安らぎを求めている
たぶん、自分が本当に求めているのは「成功」や「挑戦」じゃない。ただ、少しだけ心が穏やかになれる日常を求めているだけ。今日という一日を、少しだけ気楽に過ごせる仕事。それが「次の仕事」にあるのなら、それだけで十分だと思えるようになった。そう思うようになったのも、年齢のせいかもしれない。