スマホを開くたび誰かの幸せが突き刺さる夜

スマホを開くたび誰かの幸せが突き刺さる夜

スマホを開いた瞬間に押し寄せる焦燥感

朝、眠い目をこすりながらスマホを手に取る。通知の数は多くない。それでも何気なく開いたSNSのタイムラインに、いきなり友人の結婚報告。白いウェディングドレスと満面の笑顔。見なきゃよかったと思うけど、指は止まらない。次は赤ちゃんの写真、その次は新築の玄関前でピースサイン。おめでたいことだと頭では理解している。けれど、心がざわつく。なんでこんなにも、自分の人生が空っぽに見えるんだろう。

結婚報告 子どもの成長マイホームの鍵の写真

30代後半から40代になると、投稿される写真のジャンルが変わってくる。それまでは旅行とか飲み会とかだったのが、急に「新しい命が誕生しました」「夢のマイホームを建てました」「結婚式のご報告です」に変わる。投稿の内容が成熟していく一方で、自分のタイムラインは事務所とコンビニ弁当の話しかない。司法書士って肩書きはあるけど、それが自分を救ってくれることはない。人の幸せが可視化される現代って、本当にしんどい。

「いいね」を押す指が一瞬止まる理由

「いいね」を押す。それだけのはずなのに、指が止まる。一瞬だけ、押すべきか迷ってしまう自分がいる。心から祝福できない自分が嫌になる。でも、押さなかったら「アイツ、性格悪い」と思われるかもしれない。そんな風に考えてしまう自分もまた、情けない。義理で押す「いいね」ほど、空虚なものはない。相手には届かない違和感が、胸の中に静かに残る。

幸せそうな投稿に漂う“勝者の余裕”

投稿された写真には、余裕がある。時間的にも、経済的にも、そして精神的にも。たとえば「子どもが初めて歩きました」と書かれた投稿には、心からの感動と幸福がにじみ出ている。そんな投稿を見るたび、勝手に「自分は負けている」と感じてしまう。勝負じゃないと分かっていても、勝ち組と負け組の境界線が、スマホの画面に浮かび上がってくる。

「自分には関係ない」と言い聞かせても

何度も何度も「自分には関係ない」「人は人」と言い聞かせる。けれど、それがどれだけ無力な言葉か、もう知っている。比べる必要なんてないと分かっていても、人間はどうしても他人と自分を比べてしまう生き物だ。SNSというツールは、その比較を日常にしてしまった。夜、事務所でひとりお弁当を食べているとき、スマホの通知音がまた鳴る。怖くて見られないけれど、つい開いてしまう。

比べたくないのに比べてしまう日常

「隣の芝生は青い」とはよく言ったもので、見なくていいのに他人の芝生を覗きにいっては、自分の枯れた庭にため息をつく。例えば、元同級生の女性が「旦那が今日もご飯作ってくれました」なんて投稿しているのを見たとき、なんとも言えない気持ちになる。自分の冷蔵庫には賞味期限切れの卵と、昨日の残りのカップ麺。比べてはいけないと思うほど、比べてしまう。

通知を切っても心は切れない

試しに通知を全部切ってみたことがある。でも、意味がなかった。仕事の合間に無意識にSNSを開いてしまうクセが抜けない。通知がなくても、「誰か何か投稿してないかな」と探しに行ってしまう。しかも、そのほとんどが“幸せ自慢”で、自分と関係ない世界のように思えてくる。通知を切っても、心の中のざわつきは切れない。むしろ、余計に気になってしまう。

タイムラインを見ないと決めたのにまた開いてしまう

「今日から見ない」と何度も決めた。タイムラインを開かない日は、気持ちが少し落ち着く。でも、人間って弱いもので、ちょっと暇ができるとまた開いてしまう。開いた先には、また誰かの幸せ。勝手に刺さって、勝手に落ち込んで、また「見なきゃよかった」と後悔する。この無限ループに、自分で自分を追い込んでいるような感覚すらある。

司法書士の孤独が深まる瞬間

司法書士という仕事は、一見すると華やかに見えるかもしれない。でも実際は、孤独と向き合う時間が長い。相談者の人生の節目に関わる仕事だけに、プレッシャーもあるし、感情のコントロールも求められる。それでも、誰かに相談できるわけじゃない。職場にいるのは、事務員さん一人。気軽に愚痴をこぼす相手もいない。そんな状況で、人の幸せに触れると、どうしても心がすり減ってしまう。

お祝いごとは仕事を遅らせる要因にもなる

例えば、登記関係の急ぎの案件がある日に限って、誰かの結婚式だとか出産だとかの報告が飛び込んでくる。クライアント側も気が緩んで、連絡が来なかったり、必要書類が遅れたりする。祝うべきことなんだけど、こちらとしては「それ、今言うタイミングか?」と内心で思ってしまう。気持ちの切り替えが求められるけれど、そんなに器用じゃない。

「おめでとうございます」が空虚に響く日

形式的に送る「おめでとうございます」。スタンプ一つ、ハートマークひとつ。けれど心の中では、何も動いていない。むしろ、「この人はこれからますます幸せになっていくんだな、自分は…」という思考に沈む。心から祝えない自分に落ち込み、さらに孤独を深める。空虚な言葉を重ねるたびに、自分の感情の鈍さに気づかされる。

元野球部でもホームに帰れない夜がある

若い頃、甲子園を目指して白球を追いかけていたあの夏。仲間と一緒に流した汗や涙は、今も鮮明に思い出せる。けれど、あの仲間たちは今、家庭を持ち、子どもとキャッチボールをしている。一方、僕は仕事帰りにひとりでグローブを眺めるだけ。あの頃と違って、帰るホームがどこにもない気がしてしまう。司法書士という立場があっても、それは心の居場所にはなれない。

仲間は結婚して家庭を持ち 子どもとキャッチボールしている

久しぶりに集まった高校時代の仲間との飲み会。話題の中心は子どもの話、住宅ローンの話、家族旅行の話。自分だけが話についていけず、愛犬の話をするしかない。「まだ独身なの?」という一言が、笑い混じりでも心に刺さる。どれだけ仕事を頑張っていても、そういう場では“何も成し遂げていない人”として扱われる。虚しさを抱えたまま、また一人で帰路につく。

僕のグローブはもう何年も使っていない

押し入れの奥にしまったままのグローブ。たまに見つけて手に取るけれど、もう皮が乾いて硬くなってしまっている。昔は毎日使っていたのに、今は埃をかぶったまま。まるで、自分自身を見ているようで、なんとも言えない気持ちになる。「もう一度、誰かとキャッチボールがしたい」と思っても、その相手がいない。心のホームベースは、どこにあるんだろう。

それでもまた画面を見てしまう理由

幸せな投稿に傷つきながらも、やっぱりまた見てしまう。嫌なら見なければいいのに、それができない。羨ましいと感じるのは、まだ自分にも希望があるからなのかもしれない。誰かの幸せに心が揺れるのは、諦めていない証拠かもしれない。そんな風に、少しでも前向きな意味を見出そうとしている自分がいる。これもまた、ささやかな抵抗なのかもしれない。

羨ましいけど見たい 知りたくないけど気になる

嫉妬してるわけじゃない、と思いたい。でも実際は羨ましい。ああいう人生を歩んでみたかった、という感情は確かにある。だから、画面越しの投稿を見てしまう。「いいなあ」と思っては、自分の現実に戻る。この繰り返し。でも、そこに何かを感じられる限り、自分の中にもまだ何かが残っていると信じたい。

幸せの形を探すことが まだ諦めていない証拠かもしれない

幸せの形は、人それぞれだとよく言う。けれど、目に見える幸せばかりが並ぶと、自分の形が分からなくなる。でもきっと、自分なりの形があるはずだ。誰かと比べてしまうのも、今の自分が満たされていないから。ならば、自分なりの満たされ方を探していけばいい。そう思えるだけで、少しだけ心が軽くなる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。