ペンが出ないだけで全てが止まる日の話

ペンが出ないだけで全てが止まる日の話

ペン一本で止まる現場の現実

その日は朝からなんとなく落ち着かない気分だった。契約書の署名立会いが午後に予定されていて、相手は時間にシビアな企業法務担当。こちらも万全の準備を整えて臨んだつもりだった。にもかかわらず、肝心な場面で手にしたペンが、まったくインクを出さなかったのだ。まるでコントみたいだが、本人は汗だくだった。小さなこと一つで、仕事のリズムが崩れ、場の空気も微妙になる。司法書士の仕事は、地味で細かいがゆえに、こうした「くだらないトラブル」にも容赦なく責任がのしかかってくる。

手にしたペンが書けないだけで空気が凍る

契約当事者がサインをしようとペンを構えた瞬間、ペン先がかすれて紙の上を滑るだけになった。僕は「あっ」と声を出しそうになりながら、無言で別のペンを探した。が、なぜか予備のペンも見つからない。部屋に重苦しい沈黙が落ちる。相手方の担当者は腕時計をちらりと見て、表情には明らかな苛立ち。こういう瞬間、なぜかこちらの信用までもが急速に薄れていくような気がするのだ。たかがペン、されどペン。空気を壊すには十分すぎる凶器だった。

書類の山より重い空気

机の上には分厚い書類が整然と並び、ハンコも押印も滞りなく進んでいた。なのに、最後の「サイン」の場面でつまずいた瞬間、すべての信頼が崩れ去るような気がした。書類よりも、その場の「空気」が何より重い。契約の場というのは、ほんのわずかな違和感ですべてが台無しになるのだと、改めて身にしみた。事務所で事務員さんに「予備のペンは常に5本」と言っていたのは自分なのに、自分が忘れてるんだから世話ない。

クライアントの視線がやたらと痛い

沈黙の中でクライアントの視線が突き刺さる。たぶん責められてはいないのだろうが、自分の中で過剰に反応してしまう。頭の中では「なんで今?なんでよりによってこの場面で?」という自問自答が渦巻いていた。ペンが出ない、それだけのことで、なぜここまで居心地が悪くなるのか。これは司法書士という職業の性だろう。段取りが命、その段取りを壊した者への視線は、何よりも厳しい。

急いでコンビニに走った情けなさ

ペンがないなら買いに行くしかない。とはいえ、契約先の目の前で「あ、ちょっと買ってきます」と言ってスーツ姿で小走りする司法書士が、どれだけみっともないことか。だけど背に腹は代えられない。近くのコンビニまで猛ダッシュした。コンビニでボールペンを手に取ったときの安堵と恥ずかしさは、一生忘れられない。自分が情けなくなりながらも、仕事は進めなきゃいけない。そういう瞬間が、何度もある。

小走りの背中ににじむ責任の重さ

久しぶりにダッシュした足が重くて、ふくらはぎが悲鳴を上げていた。情けないやら、悔しいやらで、胸の奥がチリチリと痛む。仕事とはいえ、大の大人が「ペンを忘れて走ってる」その姿には、いろんな感情が詰まっていた。司法書士という職業には、見た目の「ちゃんとしてる感」が求められる。でも、現実はこのザマだ。自分の背中がどう見えていたか、想像したくもなかった。

自分で自分を笑えないときがある

事務所に戻ってから、事務員さんに「なんかあったんですか?」と聞かれて、「ペンがね…」とつぶやいた。彼女は一瞬ぽかんとしてから、気を使って笑ってくれたけど、こっちは笑えない。ミスじゃない。でも、準備不足と言われれば否定できない。仕事の大半はミスでなくても、印象で評価される。だからこそ、こういう「くだらないトラブル」は心にしみる。

「準備不足」のレッテルが怖い

司法書士は完璧であることを求められがちだ。たとえ人間らしいミスでも、そう見えた瞬間に「信用」の足元が揺らぐ。ペン一本忘れただけで、「この人、本当に大丈夫かな」と思われてしまう。だから余計に、そんな小さな失敗ほど心に刺さる。言い訳はしない。でも、言い訳したくなる。そういうジレンマを、日々感じながら生きている。

ペン一本で信頼を失いそうになる不安

実際には信頼を失っていないかもしれない。でも、「失ったかもしれない」という思いがしつこく残る。信用って、取り戻すのがすごく難しい。だからこそ、失いかけたときの焦りが半端じゃない。ミスを補う力も必要だけど、そもそもミスをしない努力が大前提。ペン一本を忘れただけで、こんなに自分を責めるとは、若い頃の自分は想像もしてなかった。

それでもまた同じ朝が来る

次の日も、同じように朝は来る。少しだけ早く起きて、ペンを3本、鞄に入れた。「今日は絶対大丈夫だ」と自分に言い聞かせながら。くだらないトラブル一つで、心が大きく揺れることもある。だけど、そういう日々を積み重ねて、なんとか仕事をしている。司法書士だって、所詮は人間。ペンが出なくて焦るくらいの方が、むしろ自然なのかもしれないと思うようにした。

どんな失敗も仕事は待ってくれない

いくら失敗しても、反省しても、仕事は待ってくれない。次の依頼、次の案件、次の電話がやってくる。だから、気持ちを切り替えて進まなければならない。でもその切り替えが、年を取るごとに下手になってきた気がする。昔はもっとすぐに前を向けたのに。今は、ちょっとした出来事が一日中頭に残る。歳をとるって、こういうことなんだろうな。

小さな事件を抱えてまた現場へ

この話は、傍から見れば「くだらない」の一言で終わるかもしれない。でも、自分の中では立派な事件だった。自分の未熟さや弱さが露呈した、ある意味で「事件」。その事件を胸に抱えて、また別の現場へ向かう。もう同じ失敗は繰り返さない。…とはいえ、また別のトラブルが起きる。それが人生。それが司法書士という仕事。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。